日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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南海監督を勇退した鶴岡には、近鉄佐伯勇、阪神野田誠三の大物オーナーから監督の声が掛かったが固辞した。南海一筋の23年間は11度のリーグ優勝、2度の日本一。Bクラスは2シーズンだけで、常にV争いを演じてパ・リーグをもり立てた。

ユニホームを脱いだ後はNHK解説者、評論家としてネット裏からグラウンドを見守った。日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)の設立にもかかわり、監督の座を降りた3年後の1971年(昭46)には同連盟理事長に就いた。

南海キャンプ地で故郷の広島県呉市にある「鶴岡一人記念球場」に隣接する「鶴岡一人記念スポーツ会館」には「これからの子供たちには国際感覚を身につけさせることが絶対必要だ」と本人の言葉が残っている。

精神主義といわれる鶴岡野球だが、球界で初めてスコアラー、スカウトを採用し、データ、情報を活用した草分けだった。ファームを新設して若手を引き上げるなど先見の明があった。

それは今の時代につながっている。現在の常勝ソフトバンクを人材育成、情報戦の覇者ととらえれば、名門ホークスの地下に脈々と流れる礎を感じずにはいられない。

鶴岡は00年3月7日、大阪市福島区の関西電力病院で、動脈血栓による心不全で死去した。83歳。堺市内の自宅に遺体が戻ったのは午後0時40分。家族からの依頼で先回りして仏間の片付けを手伝ったのは、NHK報道部チーフディレクターでスポーツ班に所属した毛利泰子だ。

20年がたった今、鶴岡から信頼を置かれた毛利が初めて明かした。77年10月5日に監督を解任された野村克也が会見で「鶴岡元老の圧力に吹き飛ばされた」と批判し、大問題に発展した一件。00年の年明け、鶴岡が腸炎で堺市の病院に緊急入院したときのことだ。

「鶴岡さんが『野村から年賀状がきたんや』とおっしゃったんです。驚きました。わたしは自宅にいって年賀状の束を確認しましたが、ありませんでした。阪神の監督になった際も『野村があいさつにきたら、なんと言ったらいいやろな?』ともらしていた」

00年の野村は阪神監督として2年目を迎えようとしていた。毛利は阪神球団に年賀状について問い合わせたが後日、野村自身は出していないとの連絡が返ってきた。ベッドの上にいた鶴岡の思い違いだった。

教え子の野村を監督の座から引きずり下ろしたというぬれぎぬに、鶴岡は毛利に「ばかたれ。おれがそんなことをするわけはないやろ」と語っていた。

「鶴岡さんは亡くなるまで野村さんのことを気に掛け、心配してたんやなと思ったら涙が出ました」

「グラウンドにゼニが落ちている」。親分の教えのもと野村、広瀬叔功、皆川睦雄ら無名だった若手が育った。大阪市内の本願寺津村別院(北御堂)で9日に通夜、10日には葬儀・告別式が営まれた。長男泰は「ひょっとしたら野村さんが…と言われたので、夜中2時ぐらいまで待ちました」と語っている。

弔辞で杉浦忠が切り出した。

「監督、御堂筋が見えますか…」

親分の棺(ひつぎ)は1959年(昭34)に日本一を遂げた日と同じように、御堂筋から大阪球場跡地を巡って旅立った。冬枯れの日、鶴岡の愛娘・香と会った。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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