阪神ドラフト1位佐藤輝明内野手(22)が届かなかった偉大な記録を取り上げます。怪物ルーキーは4月終了時点では7本塁打で、新人の4月までのプロ野球最多本塁打記録に、あと2本及びませんでした。今回は今も破られていない同記録最多の9本塁打を放ち、1950年代に阪急などで活躍した戸倉勝城氏の足跡をたどり、三男・恒城(つねき)さん(70)からのエールをお届けします。【取材・構成=中野椋】

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佐藤輝が4月27日中日戦(バンテリンドーム)で、阪神新人での最速7号を放った日のデータ記事に、その人の名前があった。戸倉勝城。毎日(現ロッテ)で新人だった1950年(昭25)の4月終了時に9本塁打を放っており、その記録は現在も破られていない。そして、新人の10号到達記録でも歴代2位の32試合というスピードで名を刻んでいる(佐藤輝は33試合)。

どんな選手だったのか。調べてみると、パ・リーグ第1号の本塁打を放った伝説のプレーヤーだと分かった。35歳の高齢で創設されたばかりの毎日に入団。パ・リーグ初代王者に輝くと、2年目の51年に阪急(現オリックス)に移籍した。41歳シーズンの55年には、40歳以上での最高打率となる3割2分1厘をマークするなど、今も残る年長記録を次々と築いた。

毎日入りした50年に生まれた戸倉氏の三男、戸倉恒城氏は「おやじはそんな記録も持っていたんですか、知らなかった」と父の新人時代の記録に驚いた。「パ・リーグ1号と毎日オリオンズの1号を打った人。だからパ・リーグやロッテのメモリアルアーチの時には名前を出してもらっていましたが、4月までの新人最多本塁打とは…。ここでも出してもらえてうれしいです。佐藤君のおかげですね」。父の偉大さを再発見させてくれた佐藤輝に感謝した。

子どもの頃から、阪急の本拠地だった西宮球場へ電車でよく通ったという。衝撃だったのはヤジの多さ。「打てなかったらボロカスですよ」。時には自宅にファンから文句の電話がかかってくることもあった。それでもいら立つ様子を見せない、寡黙な人だったという。

そんな父の1年目の背番号は佐藤輝と同じ「8」。さらに恒城氏自身が佐藤輝の母校、甲陵中の近くに住んでいた過去もあり、縁を感じているという。「昔は野球場に個人技を見に行っていた。稲尾の完投だ、村山、小山の完投だってね。佐藤君は久しぶりに個人技を見たいと思わせる選手ですよね」と興奮気味に話す。

間近でスターの父を見て育ってきたからこそ、佐藤輝に伝えたいことがある。「内心は阪急のつながりでオリックスを応援しているけど、セ・リーグなら阪神だよ。僕らの世代は阪神対巨人。阪神が巨人をやっつけるのが一番うれしい。佐藤君には生意気に思われてもいいから、昔の選手のように『やかましいわホームラン打ったらええねやろ』くらいの気持ちでいってほしいね」。佐藤輝が記録残していくと、これからも多くのレジェンドの名前が挙がるのだろう。偉大な先輩たちに負けない活躍に期待がかかる。

◆戸倉勝城(とくら・かつき)1914年(大3)11月3日生まれ、山口・下関市出身。豊浦中から法大に進み、社会人チームから1950年(昭25)に毎日(現ロッテ)入団。パ・リーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献。51年、阪急(現オリックス)移籍。57年まで強打の外野手として活躍した。ベストナイン2度。59年シーズン途中から62年まで阪急監督。67年に東京(現ロッテ)監督、シーズン途中に退任。97年6月6日に心不全のため死去。現役時代は170センチ、69キロ。右投げ右打ち。