日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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ヤクルトが球団初の優勝を遂げた1978年(昭53)は、4月1日の開幕から3連勝後、2つの引き分けを挟んで7連敗し、その月は4位に沈んだ。盛り返したのは5月からだ。

第11代監督に就いた広岡達朗はオーナーの松園尚巳に「最初はピッチャーから立て直し、2年目は打撃、守備に重点を置きます」と約束していたから、チーム作りの区切りの年だった。

大リーグで学んだ先発ローテーションのシステムを実践した。先発は松岡弘、安田猛を中心に、鈴木康二朗らで回し、救援に井原慎一朗を起用。倉田誠、会田照夫、梶間健一らもそろった。

「スポーツ紙の記者にも覚えておいてほしいのが一番にでていくのがエースです。対戦チームとの相性であてがうのは邪道です。わたしは大リーグでローテーションを平等に回すことを教わった。どんなことがあっても5回までは責任をかぶらせて、ローテーションを守らせました」

そのシーズンは川上哲治が率いた巨人V9時代の捕手だった森祇晶(当時昌彦)をバッテリー兼作戦コーチで招請。監督就任からコーチと選手の飲食を禁じるなど一線を引き、なれ合いを一掃した。

正捕手だった大矢明彦はコーチの森と何度も衝突したという。例えば、大矢は捕手として右足を約5センチ下げて構えたが、森は左足と右足を投手側に正対させるべきという指導で相違が生まれた。

「森さんとは時々ぶつかりましたし、わたしも指導者になって気づくわけですが、その人によって教え方がいろいろある。でも広岡さんは勝つために何をすべきかという最終目的がはっきりしていた」

大矢が「どのチームも巨人に対する意識は特別だった」と語ったように、広岡と森は古巣への対抗意識を燃やした。指揮を執っていたのは長嶋茂雄。特にV9メンバーの森は「巨人は怖くない」と選手を洗脳し続けた。

捕手出身の森は、後に西武監督で8度のリーグ優勝、6度の日本一を達成。広岡は「非常によく野球を知っていたし、わたしが今、監督だったら、再び森を(指導役として)招くだろう」と語った。

広岡は調整に目を光らせ、配球にも口うるさく注文をつけた。打者にはもちろん、マニエル、ロジャーの外国人にも容赦なく交代を強いた。ぬるま湯だったチーム体質は徐々に“色”を変えた。

「ピッチャーはローテーションを自覚するようになりました。安田を5回で代えにいくと、『こんなのやってられるか!』とライト方向の通用口に走っていきました。こちらは『それならもうちょっとしっかり投げろ』という言い分です。鈴木だってわたしが交代を告げるとバックネットにボールを投げつけましたね」

それまでの巨人アレルギーは影を潜め、広岡イズムの注入で選手たちに闘争本能が芽生えた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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