1人の選手を指名するまで多くのドラマがある。97年ドラフトで、阪神はのちにエースとして沢村賞を獲得した水戸商・井川慶投手を2位で指名した。高校時代は腰痛に苦しんでいた左腕をいかにして上位で獲得したのか? 担当を務めた元阪神スカウトの菊地敏幸氏(71)が指名に至る秘話と伝説の名スカウトとの出会いを明かした。

【前編 ほとんど投げない井川の不安点】はコチラ>>

◇ ◇ ◇ ◇

末永は水戸商の橋本実監督と中央大の同期だった。その縁も生かし、病院で精密検査を受けた井川の診断も把握した。一過性の成長痛だった。「これでGOサイン。そこまで腰の状態を調べた球団はないと思う」。井川の腰の状態を懸念して、興味を示した球団は手を引き始めたが、11月21日のドラフト会議に向けて、情報戦はし烈を極めた。

あるとき、ある球団のスカウトから菊地に電話がかかってきた。「菊地くん、井川は関係ないんだろ?」。間髪入れずに返した。「僕が担当です」。しばらく、間があった。「ということは、早くから動いているよな」。ほどなく、その球団は撤退していった。最後まで争奪戦を演じたのはロッテと日本ハムだ。

井川を巡り、スポーツ紙の報道を通じて火花を散らした。10月31日の日刊スポーツに「井川ロッテ1位」の見出しが躍る。指名を決めたと断定していた。すると、これまで隠密で動いていた阪神が突如、意思表明した。11月4日に2位指名を内定。井川も「僕も気持ちは阪神一本」と話した。分の悪さを察したロッテは急きょ、野手1位に方針を切り替えた。

土壇場で参戦してきたのは日本ハムだ。ドラフト当日の21日朝、阪神と競合覚悟の2位で強行指名する可能性が急浮上し、新聞で報じられた。上田利治監督が「彼は将来、エースになれる素材。腕の振りは川口より1ランク上やね」と絶賛し、猛プッシュしている。阪神側はすぐに動いた。記者を通じて日本ハムにメッセージを伝えた。「1位中谷仁と2位井川をひっくり返すことも可能」。日本ハムは近大・清水章夫の1位逆指名が決まっていた。出方を読み切っていた。強烈なジャブを打ち、身動きできない状況に追いつめた。勝負は決まった。ドラフト後、菊地は日本ハムのあるスタッフに問われた。

「阪神は本当に1位井川の可能性、あったのか?」

答えられるはずがなかった。ただ静かに笑みを浮かべるだけだった。競合で抽選に持ち込まれれば、獲得できるか分からなくなる。すばやく対策を講じ、リスクを消す。「阪神=井川」のムードをつくる。絶妙な駆け引きも、才能あふれる左腕の争奪戦を制した、大きな要因になった。

1軍で活躍できる選手に巡り会えたスカウトは幸せだ。菊地は「縁ですよ」と言う。もしも、あの日、笠間で井川を見ていなかったら…。もしも、腰痛をうのみにしていたら…。阪神井川は誕生してなかった。菊地は、たった1度の快投でも、自らの直感を信じた。

あるとき、ベテランのスカウトに選手をどこで見極めるのか、思い切って聞いてみた。「分からん」と言われた。「ワシだって何人も、失敗の方がはるかに多い」。広島の木庭教スカウトだった。衣笠祥雄、高橋慶彦、大野豊、川口和久、正田耕三…。名選手を続々と発掘し、黄金期を支えた伝説の人だ。だが、老スカウトのメガネの奥が光る。「ワシ、あんまり数、見ん」と言い継いだ。

「最初、いい印象を持っていて、追いかけていくとだんだん結果が出なくなってきて、アレってなる。回数を見ると分からなくなる」

人が人に惚れる。その要諦に気づかされた。菊地は社会人リッカーでプレーしたが、プロ野球選手の経験はない。木庭も同じ境遇から、名スカウトになった。他球団であれ、一目置く人だった。関東近郊の球場に足を運んだときだった。「こんな試合、誰も見に来ないという大会」。客席を見渡して驚いた。1人だけスカウトが選手の動きを追っていた。木庭だった。目を合わせると驚かれた。

「誰、見に来とるんじゃ」

「あのショートです」

目利きのスカウトは深くうなずく。「いいところ、目を付けてるな。コレ、ワシ、いいと思うんよ」。感性を磨く日々だった。ちょっとだけ、晴れがましい気持ちになった。たった2人だけの空間もまた、菊地にとって肥やしになった。

38歳でスカウトに就き、担当エリアが増えていく。井川を見初めた当時、同じ選手ばかりを見られなかった。「私も何度も見に行かない方だと思う。1回、2回の勝負って感じだった」。スカウトとしての自負がある。一瞬のきらめきを見逃さず、無数の有望株をプロの道に導いてきた。

菊地はいま、若い家族にも人気な神奈川の住宅街で暮らす。阪神を退団してから8年がたっていた。「私のスカウト25年、当時、阪神で一番、長かったんですよね」。若者からサラリーマン、老人たちも入り交じる駅近くの喫茶店で、当時をよどみなく思い起こしていく。他球団の戦略を探り、けん制し合った井川争奪戦の日々の記憶は鮮明だ。だが、1つだけ、聞いたこともない事実があった。

97年のあのとき、ドラフト当日に強行指名をにおわせてきた日本ハムには木庭が在籍していた。編成部の顧問として、高校生左腕に注目した。平安の川口、鳥取城北の能見篤史、そして井川だった。木庭はこう評していた。「井川君が一番エエよ。ありゃエースになれる器をしとる」。菊地が初めて知る話だった。

あの熱かった季節が、たちどころによみがえる。思わず、うなずいた。「そうだったのか。木庭さんが…。ってことは、木庭さんが球団に推薦していたのかもしれないなあ」。まったく予期していなかった、24年越しの答え合わせだった。直感を大切に生きてきた、かつての敏腕スカウトにとって、胸を張れるひとときになった。【酒井俊作】