東京6大学で早大のスターだった三原は、巨人で二塁を守り、監督としても名指揮官になった。プロ野球の創成期を支えた男は、自身が“メモ魔”だったことを認めている。

「毎年キャンプに出発する際に、新しい大学ノートを用意した。鉛筆で走り書きもあれば、万年筆でメモすることもあったが、それを後に清書した。シーズン中も、そのときに思ったことを書いたし、真夜中に起きてメモすることもあった」

“三原メモ”は、野球に対する考えから、監督の心得、戦術・戦略の作戦面、技術論からフォーメーション、ときには人生観など多岐にわたっている。長女の敏子は「いろんなことをメモしていました。普段の生活の中でも、なんか気がつくと書いていたような気がします」という。

「今では普通ですが、外国に行ったときに、向こうには電動式のカーテンがあったとか、車輪がついて動くようなイスがあったとか、メモして帰ってきていました。実際に車輪がついたイスを買ってきていましたね」

常に頭を巡らせ、視野を広げながら考えたことが、奇想天外な作戦につながった。その1つが1947年(昭22)の巨人監督就任を機に名付けた「流線型打線」で、当時の流行語になった。

「流体力学でいうと、物体が空気抵抗が少なく、もっともスピードが出やすい。つまり、中心部がふくらんで、その前後がなだらかな曲線を描く。流線型では1番より2番と、そこからカーブを上げて4番を頂点とする。5番からもなだらかなカーブを描く」

三原はこの理論をもとに「2番」に重点を置く。巨人では千葉茂を2番で起用し、川上哲治と打順を離したオーダーで成功する。のちの西鉄監督時代に2番に抜てきしたのは豊田泰光だ。「バントをしない2番」「3番最強論」は、三原が命名した“流線型打線”が礎だったといえる。

巨人助監督時代の三原は、監督の藤本定義から、熊本工出身で19歳のピッチャーだった川上哲治の一塁転向について相談を受けた。川上が投手で大成すると思っていなかった三原は、コンバートに賛同する。

「人材の適性を見極めるには、いくつかの職場に回すことだ。しかし、それを課せられた本人の苦労は並大抵ではないだろう。血のにじむような努力がないと成功者にはなれない」

三原の進言が“打撃の神様”の誕生、後にV9監督の契機になったというのは言い過ぎか。もちろん川上が野球に打ち込んだ精進の成果は言うまでもない。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

連載「監督」まとめはこちら>>