智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

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三原は「野球は常に生きている」とメモにしたためた。自らが用いた「花は咲きどき、咲かせどき」という言葉も、そこからつながっているのだろう。稲尾和久(西鉄)、秋山登(大洋)らが大投手にのし上がったのは、“旬”を見極めたこその成せる業だ。

「若い選手というのは燃えさかる炎のようなものだ。人使いには古い、新しいということはない。それは使い手の相違であって、どこかで原理原則のようなものがある。選手を光らせるのは監督の役目だ」

娘婿で“怪童”の異名をとった伝説の強打者、中西太は「おやじはいつも枕元にノートを置いて、なにかひらめいたらメモをとった。旅をしても無駄がないんだ」という。それをまねて中西メモを作成した。

三原の「情」と「理」を使い分けた教えが、人の心をつかみ、その気にさせた。データを駆使し、配置転換など適材適所にコマを動かし、冷静な勝負勘で“人づかい”の妙をみせた。

「個」を生かした“遠心力野球”は、三原の人心掌握によって結果につながった。中西が不振に陥っても「尻込みするな」と信頼を押し通した。西鉄寮前にあった2万円だった借家の庭の土が掘れ、血がにじむ努力でバットを振った成果はグラウンドで表れた。

1953年(昭28)8月29日の大映戦、中西が林義一から放った平和台球場のバックスクリーン上空を越える特大ホームランは伝説だった。そのうち豊田泰光、高倉照幸らが、同じように合宿所、遠征先で素振りに取り組む相乗効果を生んだ。

時には選手に暗示を掛け、実力以上のものを引き出し、ゲームでは奇策で刺激を与え、その手のひらで選手を操った。中西は「西鉄時代は東京遠征のたびに、自宅に招かれて食事をごちそうになった」という。

三原の長女で、中西夫人の敏子に、成城の自宅にもっとも熱心に通った選手を問い求めると、意外な名前が返ってきた。「仰木(彬)さんでしたね」。近鉄、オリックスで一世を風靡(ふうび)した“仰木マジック”のルーツは、三原魔術にあったのだ。

三原は「受け身のときも、攻めのときも、いつも次の一手を考える。できれば次の次の次まで考えておくことだ」と監督の条件を説いた。中西はよく虎の威を借りるなといわれた。「組織は人。チーム作りは、人作り」と語った。

茶道、華道など稽古に通わされた敏子は「父は帰って玄関に入ったら、障子の桟を指でパッとなぞるような人でした。結婚後もうちにきて、どこどこが汚れてると言われた。ずっとです。だから父が来るというと、あちこち掃除しました」となつかしんだ。

拙者がリビングに控えていると、そのうち目の前には、三原家直伝で敏子の手料理がズラリと並ぶ。時には和食、また別の日は洋食、イタリアン…。多彩な味は“三原魔術”に触れた気がした。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、おわり)