巨人桑田真澄投手チーフコーチ(53)が語るトミー・ジョン手術とは-。今ではダルビッシュ、大谷ら多くの選手が同手術から復活を遂げたが、かつては安全性を理解されず、疑問視された時代もあった。逆風を押し切って手術を決意した桑田コーチが95年当時を回想し、同手術がもたらす産物と昨年同手術を受けた山崎伊織投手(23)、堀田賢慎投手(20)の期待の若手2人の復帰プランを明かした。【取材・構成=小早川宗一郎】

桑田コーチはプロ10年目、27歳だった95年にトミー・ジョン手術を決断した。約2年間マウンドから離れたが、長いトンネルの中でも前を向き続けた。

「マイナスではなくて、これは必ずプラスになる」

そう言い聞かせてきた。現役を引退した今、それが間違いではなかったと確信している。

「長くつらいリハビリ期間だった。右肘のリハビリは2時間もあれば終わる。残りの時間を料理やワインの勉強、語学の勉強、ピアノを弾いたりした。そういう時間が取れたことで、その後の人生が豊かになってきた」

95年当時、桑田コーチは日本人でほぼ前例のないトミー・ジョン手術に踏み切った。迷いはなかった。

「右肘に違和感を感じながらプレーを続けるよりは、早めに手術して復帰に向けて頑張ったほうがいい。僕はそう思います」

今ではプロ野球選手が毎年10人程度受ける同手術だが、かつては捉え方が全く異なった。手術自体に懐疑的な意見が多かった。

「当時はなぜアメリカで手術するんだ? もしかしてメジャーに行くための偽装じゃないか? とか、もう手術したら終わり、だとか。いろいろなことでメディアからもたたかれました」

同手術の前例は村田兆治氏や荒木大輔氏ら、ごく少数しかいなかった。周囲からの反対もあった。それでも腹は決まっていた。確固たる意志を持って米ロサンゼルスへ飛んだ。

「当時は日本の名医と言われた先生でも、アマチュアの選手数人しか執刀例がなかった。一方で、トミー・ジョン手術の生みの親であるジョーブ先生はプロを400人以上、執刀していた。だから僕は、ジョーブ先生に託したかったんです。日本のドクターもロスに帯同してくれたんですが『日本の10年ぐらい先に行っている』と驚いていたからね。今はそこから、日本のドクターも勉強と実績を積んで、プロアマ問わず国内で手術を受けるのが当たり前の時代になった。素晴らしい成果だと思います」

先が見えないリハビリの期間では、己と向き合い続けた。ジャイアンツ球場の外野をひたすら走り、芝がはげて“桑田ロード”と呼ばれる道ができたのもこの時期だ。

「この手術で一番難しいのは、リハビリ期間が長いこと。ジョーブ先生に言われたのは『君と僕で100%だ。僕は50%の仕事をやり切った。あとの50%は、君がしっかりリハビリをやり切ることだ。そうすると俺たち2人で100%完璧に戻れるから』と言われた。そうはいってもやっぱり長いから、目の前が真っ暗になる時もあったね」

経験をしているからこそ、寄り添える。22年、投手チーフコーチとして、同手術をへて来季の本格始動を目指す期待の右腕2人の復帰プランを思い描く。昨年のドラフト2位山崎伊と19年の同1位堀田だ。

「キャンプで様子を見ながら判断していきたいと思っています。来年は若い選手が、最低3人は1軍で活躍するようにならないと苦しい。期待している2人ではあります。ただフル回転とは考えてない。僕自身も復帰した年は中6日空けて球数を制限しながら投げた。しっかり球数と登板間隔を空けながら投げさせます。彼らには2年後3年後にエースに成長してもらいたいですね」

常に前向きに-。トミー・ジョン手術から第一線に復帰する道を切り開いた右腕は、同じ境遇の2人にこう言葉をかけた。

「手術したことをプラスにして、今後の人生につなげていってもらいたい」

自らの経験に基づいた、心からの言葉だ。

◆桑田コーチとトミー・ジョン手術 95年5月24日阪神戦、小フライにダイビングキャッチを試みた際に右肘を痛めた。登録抹消を経て6月15日の阪神戦に登板も5回途中で降板。その後はリハビリを続けるも、9月の米国での検査で右肘側副靱帯の断裂が判明。再渡米し、10月11日に同手術を行った。リハビリ期間をへて97年4月6日、661日ぶりに復帰。マウンドでは右肘をプレートに付けてひざまずいた。復帰後2年連続で2桁勝利を挙げ、98年には自己最高の勝率7割6分2厘を記録した。

◆トミー・ジョン手術 側副靱帯(じんたい)再建術。損傷した肘の靱帯を切除し、他の部位から正常な腱(けん)を移植する手術。70年代に故フランク・ジョーブ博士によって考案され、当時ドジャースのトミー・ジョン投手が74年に初めて受けたことからこう呼ばれている。