子どもたちよ、野球しようよ-。91年夏の甲子園でエース&4番として沖縄水産を準優勝に導き、巨人、ダイエーでプレーした大野倫氏(49)が沖縄県内で野球の普及事業に取り組んでいる。19年にNPO法人「野球未来.Ryukyu」を設立。理事長として、保育園や幼稚園で未就学児に野球型レクリエーション、小学校で野球型体育授業を行っている。甲子園では右肘を疲労骨折しながら奮闘し、大学を経て、プロ入り。子どもの野球離れが進む中、人生とともにある白球への思いに迫った。【取材・構成=酒井俊作】

あの夏から、もう31年になる。右肘を痛めながら773球を投げ抜き、沖縄水産を夏の甲子園の準優勝に導いた。投手生命を断たれ「悲劇のエース」と騒がれた大野さんはいま、故郷の子どもたちと向き合う日々だ。グラブをつけた保育園児がたどたどしい動きでボールを捕りにいっている。

「ワニさんで捕ろうね」

ゴロを転がしながら、優しく話し掛けた。「右手を添えて、左手のグラブでワニのように捕るんだよ」。ふわりとボールを高く放って「今度はチューリップで捕ろう」と教えた。フライを捕る動作を繰り返した。

かつての甲子園のヒーローが子どもたちに野球を教え始めて、4年目に入る。「野球未来プロジェクト」と銘打ち、野球人口の裾野を広げようとする。ある保育園では月2回の指導を1年間続けた。小学校の体育授業も週に数回。基本の動きの投げる、捕る、打つ、の3つ1セットをくり返し、教えている。その輪は那覇市から本島北部の東村まで、県内全域に広がった。

数十年前の違和感がきっかけだった。地元で息子の野球大会を見た。「入場行進で1チーム9、10人…。明らかに私の小学校の頃よりチーム数も少なくなっていました」。全国的な子どもの野球離れは、沖縄でも例外ではなかった。「優勝するトップチームでも廃部になった…」。野球少年がどこかに消えた。

大野さんは野球に生かされてきた。清原、桑田の「KK」に憧れ、甲子園を目指した。高校で投手を断念したが九州共立大では野手として日本代表でも活躍。長嶋巨人の一員として放ったプロ1本塁打は人生の勲章だろう。

「野球が心の底から好きです。野球で人生の夢を追いかけてきました。子どもたちに言うんです。『夢があるか? 夢を持てよ』って。野球に育てられた」

小学生の体育ではキャッチボールを重んじる。「お互いの気持ちが丁寧に通じないと成立しない」。人格をつくっていく教育でもある。昨年末は現実を思い知った。小学4年生に「キャッチボールやろうか」と呼びかけた。「キャッチボールって何ですか」。予想しない答えだった。「さあ、投げようか」。ボールではなく、グラブを投げた生徒がいた。野球離れの実情に触れた。

「そこからなんだなと。『野球をやろうよ』ではなく『野球を知ろうよ』からです。野球って楽しいと思ってもらって、野球を始めるところまでいければいい。日常的に野球に触れられる環境作りのために、一番のポイントは小学校の体育の授業だと考えています」

指導の難しさが、野球離れに拍車をかける。学習指導要領にもベースボール型ゲームはある。だが、野球をしたことがない教員も多く、満足に教えられないケースも目立つ。NPBも15年に指導用の教材DVDを全国の小学校に配布。大野さんは「ベースボール型は技術が必要で、指導が難しい」と指摘する。先生に動きを教えることもある。じわじわと草の根を張る。

活動を始めて、うれしいことがあった。「少年野球チームに8人入ったり、女の子が入部したとか、野球をやろうかと考えていた子の背中を押せました」。長く中学生も教える。4月は久しぶりに高校野球を観戦した。「特に、中学ボーイズ時代に控えだった子がグラウンドで躍動している姿を見て感極まりました」。ブログに思いをつづった。

31年前の夏、大野さんは傷ついてもマウンドに立ち続けた。全6試合完投だった。「譲りたくないんですね、やっぱり。やりたいんですよ。ずっと、マウンドにいたい。あくまで僕の意思だったんです」。あの情熱そのままに、子どもと野球の未来を描いている。

◆大野倫(おおの・りん)1973年(昭48)4月3日、沖縄・うるま市生まれ。沖縄水産で90、91年の夏の甲子園準V。甲子園通算12試合で打率4割4分2厘。91年は6試合完投で53回を投げた。九州共立大では2年春から4番。大学通算18本塁打。95年ドラフト5位で巨人入団。00年にプロ初本塁打。同年オフ、吉永幸一郎捕手とのトレードでダイエー移籍。02年引退。プロ通算成績は24試合出場の31打数5安打、打率1割6分1厘、1本塁打、2打点。10年に中学生硬式野球チーム「うるま東ボーイズ」を設立し、監督として指導。プロ現役時代は185センチ、85キロ、右投げ右打ち。