日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

    ◇    ◇    ◇  

第23代阪神監督に就いた吉田の「土台作り」を支える組閣が固まった。守備の名人だった指揮官は「投手を含めて守りを固めることが基本と思った」とセンターラインのレベルアップを強く求めた。

「戦力的にはバッテリー強化が必要だった」とキャッチャー出身で、監督経験者だった土井、「鋭かった」と評した守備・走塁に作戦面を担当する一枝を起用。吉田イズムが反映された布陣になった。

また第1期監督時代(1975~77年)の反省に立った吉田は「一番難しいと思ったのは投手起用、代え時だった」と継投の難しさを痛感していた。安藤阪神の最終年となった84年のチーム防御率は4・46だ。

その投手担当は、阪急ブレーブスの大黒柱で、通算350勝男(285敗2セーブ)の米田哲也を招請した。吉田の前に監督要請を受けても固辞した西本幸雄からの推薦だった。

“ガソリンタンク”の異名をとった米田は監督西本の下、球団初を含め5度のリーグ優勝に貢献した。米田は「西本さんは阪神の監督を断ったとき『甲子園のグラウンドでつまずいたら笑われるやろ』と話していた」と冗談めかした。

「西本さんから電話で『(吉田を)助けてやってくれ』と言われたんだ。阪神の投手力は最低と思っていたから、逆にやりがいがあった。吉田さんには『どうせ(130試合のうち)60敗はするんですから、負けるときは自信をもって負けてほしい』と、おれの考えをいった。それと5回以降はこちらに任せてくださいともな」

米田の言わんとしているのは、勝ちにつながらないと判断した場合は、ロスのない投手起用で「負け試合」をつくるという意味だったのだろう。

打撃担当には阪神OBの並木輝男を配し、主要ポストの投打コーチも決定。ファーム監督は幹部候補生の中村が続投。吉田阪神が船出の準備を整えた。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

連載「監督」まとめはこちら>>