日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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吉田は阪神球団創設50周年の節目にリーグ優勝、初の日本一に導いた。プロ野球を支えた伝統球団で、日本一監督が唯一というのも珍しい。阪神では星野仙一も、岡田彰布もたどり着くことができなかった。

名だたる歴代監督では松木謙治郎、藤本定義も果たせなかった。大毎、阪急、近鉄を率いた西本幸雄は、8度挑戦したが敗れた。豊富な戦力を抱えたから勝てるものでなく、“運”で片付けるのも短絡すぎる。

1975年に就任した第1期は42歳だった。「優勝争いに絡んだし、辞めるつもりはなかったのに、マスコミの力も働いて辞めさせられた」。第2期は52歳で、10年の歳月が監督の処し方を変えた。

「40歳代は血気盛んでしたから、負ければイスを蹴飛ばしたし、チームを束ねることができなかった。悔やんでも仕方ないが、またチャンスがあれば、もっとうまくできるはずと思っていました」

吉田は終生の師と仰いだ大徳寺(京都市北区)の盛永宗興から「徹する」の真理を説かれる。今でもサイン色紙には“徹”と添えるが、何事にも集中し突き詰めてこそプロフェッショナルと悟りを受けた。

本人が「育てながら勝つ」という指導者の理想像は相反する。いずれの監督もいったんは追求しても、そのうち挫折し、敗れた。だが85年の栄光は、まばゆいばかりの選手の成長がチームを支えた。

監督になった際は、盛永から禅にある「■啄同時(そったくどうじ)」の4文字を託される。卵からヒナがかえるとき、中から殻をつつくのと、外から親鳥が手助けする、お互いのタイミングが信頼し合うのに大切という教えだ。(※■は口ヘンに卒)

「ゆっくり進むことを恐れてはならない。でも立ち止まることは恐ろしいことです。心を鬼にし、妥協を許さず、忍耐強く鍛えるべきと言い聞かせた。“一丸”“挑戦”を掲げて、“一蓮托生(いちれんたくしょう)”で戦い抜いたつもりです」

日本一のウイニングボールは、日航機墜落事故にあった球団社長の中埜肇(なかの・はじむ)の霊前にささげられた。正力松太郎賞で得た賞金500万円は「一丸と言い続けましたから」と気前良くチームに手放した。

選手で17年、3度の監督で8年を過ごした。球界には“名選手、名監督にあらず”の言い伝えがある。

「現役時代の威光だけで引っ張れるほど容易ではありませんわ。到達点が目的、プロセスが目標。リーダーはまずそれを明確にするべきでしょうな」

野球未開のフランスに渡って、ナショナルチーム監督で7シーズンも采配をふった。異国でオリンピック(五輪)出場を目指し、プロ・アマ関係の土壌をならし続ける。勝負師の野望が尽きることはなかった。

【寺尾博和編集委員】

(敬称略、おわり)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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