日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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9月5日のDeNA戦は左アキレス腱(けん)断裂で、選手生命の危機を乗り越えた男、阪神石井大智の“復活記念日”になった。
センター後方の画面に映し出された他球場の途中経過をぼんやりと見ていると、なにやらライトがざわついたから、すぐに異変に気付いた。
1点ビハインドの8回表、リリーフカーに運ばれてきた。ABCラジオの実況アナだった山下剛が「どよめく甲子園!!」と叫んだように、大歓声というより、うなりに近かった。
記者席から石井の復帰登板を追いながら、同じ試練から立ち上がった伝説を思い出していた。かつて右アキレス腱断裂のアクシデントに襲われた門田博光のことだ。
門田がけがをしたのも高知県大方町(現黒潮町)の春季キャンプ中だった。1979年2月16日、トレーニングコーチの笛の合図でジャンプした瞬間、足元から鈍い音がした。
それは後方から足を蹴られたかのような感覚だった。「終わった…」。そう思ったのだという。地元の病院に約40日間入院し、帰阪後は渡辺病院でリハビリを続けた。
石井の登板をみていてレジェンドを思い出したのは、同じ春季キャンプでの衝撃的な出来事だったし、門田もまたその年のシーズン中に復帰を果たしたからだ。
石井は「9月5日」に登録され、その日のマウンドに上がった。当時の門田が登録されたのは「9月7日」のこと。当日はロッテ戦(平和台)で、代打でシーズン初打席に立って四球を選んだ。
27日の日本ハム戦(大阪)で初本塁打を打つと、10月1日の近鉄戦(日生)では鈴木啓示から中越え弾を放った。終盤から19試合に出場し、2本塁打で復活の手応えをつかむ。
門田の大けがから、半世紀もたってスポーツ医学は進歩している。縫合術が失敗し、復帰できないケースもある。石井のシーズン中復帰は、縫合する術式からプログラムまで、最善が尽くされた結果だろう。
それでいうと、門田はすでに泉下の人だが、約50年前にアキレス腱断裂に見舞われ、シーズン中に帰ってきたのは、尋常な出来事ではなかったはずで、奇跡だった。
翌80年は41本塁打で「カムバック賞」。通算567本塁打は、王貞治、野村克也に次ぐ歴代3位。南海ホークス最後の年に40歳で本塁打王、打点王の2冠に輝き、“中年の星”といわれる大打者になった。
拙者は門田の現役時代にバットケースの“運び屋”をしていた。もっとも取材しづらい偏屈なプロ野球選手として際立っていたから、ホークス番記者はあの手この手を尽くした。
弱い南海で大きな記事になるのは、門田が量産する本塁打か、ドカベン香川の減量作戦ぐらい。しかし、しゃべらない不惑のアーチストは、毎日打つから、取材する方はネタに困った。
門田のロッカーは、今もプロ野球界で例のない「個室」だった。拙者はそこからベンチまでバットをせっせと運んだ。本人に口を開いてもらってエピソードを拾うためだ。
そんな取材対象者とのふれあいも、今となってはなつかしい。鬼籍に入る数年前、行方不明のうわさが立った門田の居場所を突き詰めた。
兵庫県相生市の駅前ホテルで再会した男と、当時の番記者と宴をもつ約束を交わしたが、ついに実現しなかった。
夕暮れの帰り際に呼び止められた。「もうちょっと野球の話をしようや」。それが最後の会話だった。(敬称略)【寺尾博和】



