戦後初の外国人選手として巨人、中日でプレーした与那嶺要(よなみね・かなめ)氏が2月28日(日本時間1日)、前立腺がんのため米ハワイ州ホノルル市内で死去した。85歳だった。首位打者に輝くこと3度。アメリカンフットボールで鍛えた足で、日本野球に革命を起こしたと言われた名選手だった。74年には中日監督として巨人の10連覇を阻止した。ハワイ州マウイ島出身。葬儀・告別式はホノルル市内で行い(日時未定)、東京でもお別れの会を開くという。

 「ウォーリー」の愛称で親しまれた日系2世の名選手が出身地であるハワイの地で逝った。前立腺がんだった。80歳を過ぎても元気で2年前には日本で始球式を行った。09年7月16日、京セラドームのオリックス-ロッテ戦だった。Tシャツ姿でマウンドに立ち、左腕から第1球を投じた。これが日本のファンの前に立った最後の姿になった。

 日本に本場仕込みの「スピード野球」を植え付けた人といわれる。1951年(昭26)6月、シーズン途中に来日すると、そのプレーでいきなり周囲の度肝を抜いた。6月19日の中日戦で代打としてデビュー。エース杉下茂がマウンドに立つ初打席で、打つとみせかけ三塁前にセーフティーバントを試み、見事に成功させた。この年9月の国鉄戦では二盗、三盗を決め、最後には本盗まで成功させた。1イニング3盗塁の記録を達成した。

 強烈だったのが同年、南海との日本シリーズ第1戦だった。6回2死一、三塁のチャンスをつかむ。一塁走者与那嶺は次打者千葉茂が右翼線に安打すると、一気に本塁に突っ込んだ。タイミングは完全なアウトだったが、与那嶺はスピードを緩めない。捕手筒井敬三を目がけて強烈なスライディングを見せ、そのミットを巧みに蹴り上げた。ボールがこぼれ、勝負を決める5点目となった。来日前には米プロフットボールの名門49ersでプレーしていたが、激しいスライディング、走塁技術は当時の日本野球にはなかった。一塁走者として併殺を防ごうとするスライディングも、当初は守備妨害を宣告されたことがあったという。メジャーでは当たり前に行われることが知られるにつれ、徐々に定着していった。

 こんな激しいプレーの一方で、温厚な人柄で誰よりファンを大事にする選手だった。ソフトバンク王貞治球団会長が小学5年生のときに初めて後楽園(現東京ドーム)を訪れた際、巨人選手の中で唯一サインをしてくれたのが与那嶺氏だったという。与那嶺氏は後に「目の大きな子供にサインを求められたのは覚えている」と語ったが、その姿が今もファンにやさしく接する後年の「世界の王」を育てた。

 中日の監督として古巣巨人の10連覇を阻止した後も、指導者として88年まで日本でユニホームを着続けた。今年も多くの外国人選手が日本球界入りしたが、その門戸を開いたと言える与那嶺氏が2011年の開幕を前に逝ってしまった。

 ◆与那嶺要(よなみね・かなめ)本名ウォーリー・カナメ・ヨナミネ。1925年6月24日、米国ハワイ州マウイ島出身の日系2世。フェリントン高ではアメリカンフットボールで活躍。47年にプロフットボールの49ers入団。50年に野球に転向し、米マイナーリーグを経て51年6月に来日し巨人入団。左投げ左打ちの外野手で54、56、57年首位打者。57年MVP。51年9月12日国鉄戦では1イニング3盗塁のプロ野球記録をマーク。通算11回の本盗を記録した。ベストナイン7度。61年に中日へ移籍。62年引退後、ロッテのコーチを経て72~77年に中日監督を務め、74年には川上哲治監督率いる巨人のリーグ10連覇を阻止してチーム20年ぶりの優勝を果たした。南海、西武、日本ハムでもコーチを務め、94年に米国出身選手では初めて野球殿堂入りした。