もう1度、背番号44をつかみとる。昨秋ドラフト4位でオリックスに入団しながら、高卒1年目で戦力外通告を受けた園部聡内野手(19)が育成からの再起を誓った。将来の4番候補と期待された右の大砲は6月までに2軍戦で5本塁打を放つも、福島・聖光学院高時代から痛みがあった右肘を8月に手術。長期離脱を余儀なくされた。選手枠の兼ね合いもあって支配下登録を外れる形となったが、育成での再契約が決定的。復活を目指して秋季練習に励む園部に、現在の心境を聞いた。

 高卒1年目では異例の通告を、園部は冷静に受け止めていた。3月のウエスタン・リーグで広島大瀬良からプロ初本塁打を放つなど順調なスタートを切ったが、6月に右肘が悲鳴を上げて手術を決断。復帰まで約4カ月と診断され、後半戦を棒に振った。10月23日のドラフトで“後輩”9人が指名された数日後、球団から呼ばれた時点で覚悟はできていたという。

 園部

 三塁を守っていた試合で、一塁に送球した後に激痛が走ったんです。あの時は肘をかばって、投げ方もおかしかった。肘から下の感覚がなくなってバットは振れないし、走っても痛い。歯磨きや髪を洗うこともできない状態でした。

 8月に受けた手術は「右肘頭閉鎖不全反転骨移植」。中学から本格的に野球を始めた園部の右肘は、成長期に突然大きな衝撃が加わったために、成長障害が起きていた。高校時代はハリ治療や痛み止めでしのいだが、プロの厳しい練習には耐えきれなかった。術後1カ月間は体を動かすこともできない生活が続き、9月からリハビリを開始。11月にようやく全体練習に合流したが、遠回りだとは思っていない。

 園部

 痛かった時には、肘を手術した経験のある先輩が心配して声をかけてくれて、井川さんとかにはリハビリの話も聞けた。自分で筋トレの方法も勉強できたし、下半身も鍛えられた。打つときに左腰が外に逃げる癖も直しています。

 ともに甲子園を沸かせ、18U日本代表のチームメートだった同学年の楽天松井裕、西武森らは1軍で活躍。戦力外通告を受けたことを知った当時の仲間から多く連絡が届いたが、「俺は大丈夫」と返事をした。

 園部

 周りからはだいぶ心配されましたね(笑い)。でも、経過は順調なので焦りは全くないです。むしろ、2年後とか3年後だったら取り返しがつかないことになっていたかもしれない。ケガをしない体をつくることの大切さが1年目でわかったのも大きいです。

 支配下選手登録を外れたのは、復帰を焦らせない球団側の配慮もある。今でもユニホームを着て練習。左手だけでティー打撃を行い、一塁や三塁で送球なしのノックも受けている。秋季練習では午前の全体メニュー後、午後も日が暮れるまでコーチ陣の個別指導で打撃や守備を鍛える毎日だ。

 園部

 今は右肘を使わないことが一番。年末には両手でのスイングやネットスローを始める予定です。年明けから少しずつペースを上げて(来春)キャンプに臨みたい。プロで通用するように練習して、春には支配下に戻って必ず背番号44を取り返します。

 プロ入りという大きな夢をかなえた1年後、想像もしていなかった試練が待っていたが、表情は明るかった。1軍の舞台でアーチをかける日が来ることを信じて、和製ブーマーと期待された19歳が背番号3ケタからの再スタートを切る。【取材・構成=鹿野雄太】

 ◆園部聡(そのべ・さとし)1995年(平7)11月10日、福島県いわき市生まれ。小5で勿来第一スポーツ少年団に入り、ソフトボールを始める。ポジションは投手。勿来一中では、いわき松風クラブに所属。聖光学院では1年秋からベンチ入り。12年春から一塁手として4季連続甲子園出場。同年夏、13年春と2季連続でバックスクリーン弾を放った。9月には高校日本代表として18UW杯で銀メダル獲得。13年ドラフトでオリックス4位指名。右投げ右打ち。184センチ、94キロ。家族は母、兄。血液型O。