コロナ禍で開催された7月場所は、日本相撲協会の協会員から感染者を出すことなく15日間を終えた。協会は開催に向けて、場所前や場所中の決まり事などを定めたガイドラインを作成。各部屋に通達する他、観客や報道陣にも感染防止策を示した。そのかいあってか場所中に数人の発熱者は出たが、コロナ感染者は0。一方で、大きなサポートもあった。

協会が作成したガイドラインでは、力士らは場所中に1日2回検温。そして37度5分以上の発熱があった場合、隔離の上、医療機関でPCR検査あるいは抗原検査を受ける、としていた。通常の15日間でさえ親方をはじめ力士らは1つの白星のために神経をとがらせるが、それに加えて致し方ないことではあるが、不測の事態に備えるのは、さらに神経をすり減らすことともいえる。それを支えたのが、両国国技館や多くの相撲部屋が構える、墨田区の墨田区保健所だった。

7月場所中に墨田区保健所は、協会とホットラインを開設していた。各部屋の力士らの朝の検温記録は全て、墨田区保健所に送られ、管理。発熱力士の有無を把握する他、PCR検査や抗原検査、陽性だった場合に入院する医療機関先までを墨田区保健所が管理していたという。また陽性者が出た場合、濃厚接触者の行政検査も区内で行うとしていた。しかも、都内以外に構える部屋の協会員らも対象にするなど、墨田区保健所が全面バックアップ体制をとっていた。

墨田区保健所の西塚至保健所所長には、今も忘れることができない苦い記憶があった。高田川部屋の三段目力士だった勝武士さん(本名・末武清孝=すえたけ・きよたか)が、5月に新型コロナによる肺炎で死去したことだった。角界初の新型コロナによる死去の衝撃は大きかったが、西塚所長がショックを隠しきれなかったのはそれだけではなかった。

「あの時は、すぐに受け入れ先が見つからなかったんですよね」。勝武士さんは当時、38度台の発熱があった際、師匠の高田川親方(元関脇安芸乃島)が保健所や病院に電話するも、都内の医療機関は逼迫(ひっぱく)状態にあったため、すぐに受け入れさきは見つからなかった。結局、入院できたのは発熱から3、4日たってからだった。もし、すぐに医療機関が見つかっていたならば-。それでも結果は変わらなかったかもしれないが、西塚保健所所長は1人の医療関係者として歯がゆい思いがあったという。だからこそ「もう、あのようなことが2度と起こらないように、全面サポートすると決めました」と固い決意があった。

協会の徹底した感染防止策と、墨田区保健所の万全なサポート。これらが合わさったからこそ、7月場所の感染者0は実現できたと思える。【佐々木隆史】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)