大相撲春場所は東関脇照ノ富士(29=伊勢ケ浜)が12勝3敗で3度目の優勝を飾り、場所後に大関復帰を果たした。17年秋場所以来、21場所ぶりの返り咲きは、現行のかど番制度となった1969年名古屋場所以降、魁傑の所要7場所を上回る。両膝のけがや内臓疾患などで序二段まで番付を下げながらはい上がってきた、史上最大のカムバック劇だった。

大関まで上り詰めながら序二段で相撲をとる心境とは。照ノ富士は師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)に何度も引退を申し出たという。師匠が「まだやれる」とはね返して今があるが、これまで付け人を務めてくれてきた世代の力士と相撲をとる。その思いは照ノ富士にしか分からない。

それだけに、ケガを克服し、再び番付のピラミッドを上ってきた照ノ富士には拍手しかない。その復活劇を見ながら、ふと頭に浮かんだ力士が名寄岩だった。

初めて相撲担当を命じられた時、勉強のために数冊の本を手にした。過去の名力士が描かれた物語で、個人的に最も心に刺さったのが名寄岩だった。資料を参考に紹介させてもらう。

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鍼灸(しんきゅう)師になろうと上京していたが、体格のよさを見込まれて立浪部屋に入門した。1932年(昭7)5月の初土俵。順調に番付を上げて43年1月に大関昇進。関脇に陥落も、46年11月に大関復帰を果たしたが、そこから糖尿病や腎臓疾患など数々の病に苦しめられた。

2度目の大関陥落後も相撲を取り続け、50年5月に西前頭14枚目で敢闘賞を受賞。「涙の敢闘賞」として映画にもなった。54年9月、40歳を超えるまで現役を続けた不屈の力士だった。

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当時を知らない。時代も違う。しかし、通じるものを感じた。心技体がそろわないと勝てない、厳しい相撲の世界。心であきらめず、体を整え、技を磨いて戦い続けてきた道のりは、感動しかない。

大関再昇進の伝達式後の会見。照ノ富士は「あらためて元の位置に戻った実感を感じています。(前回は)思い出すというか、また違う形でうれしく思います。前は本当にそのまま素直に思っていたが、今はたどり着いた。ホッとしている」と話し、最後に「やってるうちに相撲が好きになる自分がいる。今、相撲大好きです」と言った。

大相撲夏場所(東京・両国国技館)は5月9日に初日を迎える。照ノ富士にとって角界の頂点、横綱を目指す次のステージの幕が上がる。【実藤健一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)