力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイヤー)さんが7日(日本時間8日)、亡くなりました。享年88歳。日刊スポーツでは、デストロイヤーさんが現役引退した93年7月に連載を掲載しています。今回追悼をかねて復刻版として再掲載します(年齢などは当時のまま)。

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デストロイヤーの日本での幅広い人気を決定付けたのは、1973年(昭48)10月5日、日本テレビでスタートした「うわさのチャンネル」というバラエティー番組だった。和田アキ子をメーンにせんだみつお、あのねのねらのタレントが、ドタバタのコントを演じる番組だった。デストロイヤーはこの番組の救世主となった。

番組スタート時の視聴率は4・7%という低調さだったにもかかわらず、白覆面の魔王デストロイヤーが、片言の日本語と、和田アキ子ことゴッドねえちゃんにハリセンでぶたれるなどの、ボケ役を演じたことで人気が急上昇した。たった1カ月で22%にまで持っていったのだ。

このテレビ出演が、デストロイヤーに、また新たなプロレス人生を歩ませる転期になった。デストロイヤーの白覆面は、プロレスに全く興味のなかった主婦層など女性の人気を呼び、レスラーとしてはジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ知名度を獲得したのだ。

この時期、デストロイヤーには内心の悩みもあった。コントを連発してお茶の間のファンを喜ばせるのはいいが、ひょうきんで弱いイメージが定着することと、子供たちへの影響を心配した。だが、13歳になっていた長男のカートは「女性が胸を出したり、当時のアメリカの感覚からすると、いやらしいユーモアもあったけど、学校が終わると、スタジオに遊びに行って楽しかった。ピンク・レディーとかタレントに会えたしね。友達にも自慢できた」と、親の心配とは関係なく、その状況を楽しんでいた。

また、番組登場と時を同じくして、デストロイヤーは外国人ではありながら、本業のプロレスでも日本陣営に入り、「流血試合の反則魔王」というイメージから脱却していった。Tシャツなどのキャラクターグッズも売れ、異国の地での成功に花を添えた。

現在も自分の試合が終了すると、特設売店に陣取り、自分のマスクのコピーを販売する商売っ気も発揮している。【川副宏芳】