同級4位村田諒太(33=帝拳)が王座に返り咲いた。昨年10月、米ラスベガスで負けた王者ロブ・ブラント(28=米国)との再戦で2回TKO勝ちした。

背水の陣で臨んだリマッチだった。4月25日、都内のホテルで開かれたブラント同席による再戦の記者会見。「ボクにとって最後の試合になるか。それとも『もっと村田を見たい』と言ってもらえるかどうか。それをジャッジメントされる試合」と退路を断ち、リベンジに向けて集中していた。会見後には報道陣に「ブラントとは会いたくなかった。屈辱的な経験をさせられた相手を前に平常心な訳がない」と戦闘モードに入っていた。

昨年10月に米ラスベガスで臨んだ2度目の防衛戦で同級王座から陥落した。3度目の「ボクシング聖地」での試合で自身初の世界戦。メインイベント登場も初めてだった。プロボクサーとして夢の1つを実現したが、当時の同級1位ブラントに0-3の判定負け。ブックメーカーの予想も大きく覆す黒星には1カ月半前の高熱をともなう風邪による調整遅れがあった。村田本人は「完全に負けた」と一切の言い訳はしなかった。

王座陥落直後は「98%ぐらは、ほぼ辞めよう」と考えていた。しかし試合動画をチェックし「あのボクシングが集大成でいいのかと考えると『それはない』と思いました」。続いて周囲からの激励もあり、自然と現役続行に気持ちが傾いた。同12月には現役続行を表明。「世界王者にあって少し満足し、ハングリーさが欠如していた。新しい目標が見つかれば力がわいてくる。それを見つけたい」。

当初の再起戦の相手は元3団体統一王者ゲンナジー・ゴロフキン(カザフスタン、現WBA1位)が候補だった。相手陣営に断られ、6階級制覇王者マニー・パッキャオ(フィリピン)を撃破したことで知られる元WBO世界ウエルター級王者ジェフ・ホーン(オーストラリア、現WBAミドル級3位)も浮上していたが、村田が契約を結ぶ米プロモート大手トップランク社のサポートで、2月に初防衛に成功したブラントとの再戦に決まった経緯がある。

リベンジという新しい目標ができれば村田の意識と集中力は一気に研ぎ澄まされた。「前と同じ試合をしたら負けるわけですから」と村田。他競技からの練習理論を見て吸収し、ジムワークでも元3階級制覇王者ホルヘ・リナレス(帝拳)の実弟で元日本ミドル級1位カルロス氏をミット打ち担当トレーナーが起用。五輪金メダリストとしてアマ経験が長いだけに、コンディションさえ整えば、適応力はズバ抜けていた。

トップランク社から肝いりで派遣された3人の練習パートナーとの1日おきのスパーリングを消化。5月上旬から始まった本格的なスパーリングは130回を超えた。所属ジムの浜田剛史代表は「ここまで予定通りにいった調整はなかった。過去最高の状態」と表現した。リミットよりも200グラム少ない72・3キロで計量パスした村田も「すごく良いコンディションできています。プロにきて、これだけ自信あるのも初めて」とまで言うほどだった。

本人も納得の心身で立ったリング。国内所属ジムの世界王者による王座陥落後の即再戦で勝利した例は過去12戦で輪島功一の2度、徳山昌守の1度のみという勝率25%の「難関」だった。アマとプロで次々と快挙を成し遂げてきた村田は再び「難関」も突破し、リベンジを成し遂げてみせた。

◆村田諒太(むらた・りょうた)1986年(昭61)1月12日、奈良市生まれ。伏見中1年で競技開始。南京都高(現京都広学館高)で高校5冠。東洋大で04年全日本選手権ミドル級で優勝など。11年世界選手権銀メダル、12年ロンドン五輪で日本人48年ぶりの金メダルを獲得。13年8月にプロデビューし、17年10月、WBA世界ミドル級王座を獲得し、日本人で初めて五輪金メダリストがプロ世界王者になった。家族は佳子夫人と1男1女。183センチの右ファイター。