「ミスタープロレス」「ミスターNWA」と呼ばれたハーリー・レイスさんが1日(日本時間2日)、肺がんによる合併症のために死去した。76歳だった。同日、WWEなどが発表した。3月に肺がんを告白し、先月にはイベント出席の移動中に病状が悪化して入院していたという。

60年代から本格的にプロレス界に進出したレイスさんは68年2月、日本プロレスで初来日。ディック・ザ・ブルーザーと組み、ジャイアント馬場、アントニオ猪木組が保持したインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。70年にも猪木、吉村道明組が保持したアジアタッグにも挑戦。72年には坂口征二のUNヘビー級王座にも挑戦した。

73年にドリー・ファンクJr.を下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。同年から全日本プロレスを主戦場とし、馬場、ジャンボ鶴田、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスを挑戦者に迎え、防衛戦も行った。またWWEの前身WWF王者とのダブルタイトル戦にも臨んだ。また82年には鶴田を下し、UNヘビー級王座、馬場からPWFヘビー級王座を奪取していた。

83年にはリック・フレアーを下し、7度目のNWA王座を獲得。80年代初頭までNWAの象徴として存在感を示し、通算8回のNWA王座獲得もあってNWAベルトは通称「レイスモデル」と言われ、本人が所持していた。

86年にはWWFに移籍し、ハルク・ホーガンのWWFヘビー級王座にも挑戦。WWFではアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘した。

95年の引退後にはプロレス団体のWLWを主宰し、後進の育成に尽力。日本とのつながりも深く、05年には小橋建太の訪問も受けた。10年11月からはプロレスリング・ノアのGHC管理委員長に就任。米国でノアの選手の育成を受け入れていた。04年にはWWE殿堂入り。13年には9年ぶりに来日し、ノアの有明大会で立会人を務め、14年には新日本プロレス東京ドーム大会で開催されたNWA世界ヘビー級選手権の特別立会人を務めていた。