元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。
1976年2月の柔道家ウィレム・ルスカ戦を皮切りに数々の異種格闘技戦を戦ったアントニオ猪木さん。後の総合格闘技につながる流れを作った言われる。
ウィレム・ルスカ(日本武道館)1976年2月6日
20分35秒TKO勝ち
72年ミュンヘン五輪で柔道男子の重量級と無差別級の2階級制覇を果たしたルスカとの試合は、猪木のバックドロップ3連発で、タオル投入でルスカのTKO負け。同年12月9日(蔵前国技館)ルスカの再戦要求で、第2戦が実現。両者激しい戦いを演じ、雪辱に燃えるルスカが暴走。21分27秒、ルスカのレフェリーストップ負け。94年9月23日、猪木のファイナルカウントダウンに、ルスカが参戦。三たび対戦が実現(横浜アリーナ)し、猪木の絞め技にルスカがラフファイトで応戦。最後は11分37秒、裸絞めでルスカが敗れた。
ムハマド・アリ(日本武道館)1976年6月26日
15ラウンド 引き分け
試合は3分15回制で行われ、タックル、チョップ、投げ技、関節技などほとんどのプロレス技は禁止。猪木はリング上に尻もちをついた状態でアリと相対し、時折キックをアリの太ももに繰り出した。お互いに決定打もなく15回を終了し、判定は引き分け。ファイトマネーは、アリが18億3000万円、猪木が6億円で、世界の興行史上最高額(当時)だった。特別リングサイドが10万円、リングサイドが8万円と、高額チケットで入場した観客は収まりがつかず、リング内に物を投げ入れたり、罵声が飛び交った。中継テレビNET(現テレビ朝日)の視聴率は、38.8%を記録した。
ザ・モンスターマン(日本武道館)1977年8月2日
5回1分38秒KO勝ち
全米プロ空手ヘビー級王者を相手に勝利。
チャック・ウェップナー(日本武道館)1977年10月25日
6回1分35秒逆エビ固めで勝ち
ムハマド・アリへ挑戦したこともあるヘビー級ボクサーに勝利
ウィリー・ウイリアムス(蔵前国技館)1980年2月27日
4回1分24秒両者ドクターストップで引き分け
熊殺しの異名をとった極真空手の強豪との一戦は引き分けに終わった。
レオン・スピンクス(両国国技館)1986年10月9日
8回1分23秒体固めで勝利
ボクシングの世界ヘビー級王者との一戦は、ガッツ石松氏がレフェリーを務めた。
ショータ・チョチョシビリ(東京ドーム)1989年4月24日
5回1分24秒KO負け
チョチョシビリは72年ミュンヘン五輪柔道男子軽重量級(93キロ以下)金メダル、75年世界柔道選手権無差別級3位。76年モントリオール五輪男子無差別級銅メダルの実績を引っ提げ、プロ格闘家に転向。1回3分の10回戦、ロープのない円形リングでの対戦となった。チョチョシビリは黒帯を締めた柔道着にはだしで、猪木はアマチュアレスリングシューズを履いてリングに立った。猪木は1回、岩石落としで攻めたが、2回にチョチョシビリの腕ひしぎ逆十字で左腕を負傷。その後はアリキック、浴びせ蹴りで反撃したが、5回にチョチョシビリの裏投げ3連発に沈み、10カウントを聞いた。この大会はプロレス界初の東京ドーム興行だった。
同5月25日の大阪城ホール大会で同ルールで再戦し、猪木が2回1分7秒、裏十字固めで雪辱を果たした。
◆アントニオ猪木 元プロレスラーで参議院議員。1943年(昭18)2月20日、横浜市生まれ。家族とともに移住していたブラジルで、プロレスラー力道山にスカウトされて、日本プロレス入り。スピードあふれる正統派スタイルを貫き、コブラツイストや卍固め、延髄斬りなどを必殺技に活躍。プロレスラーとして数々のキャリアを築く。