“プロレスリングマスター”武藤敬司(60)が、リング上で燃え尽きた。メインイベントで、自らラストマッチの相手に指名した新日本プロレスの内藤哲也(40)と対戦。約11年ぶりとなったシングルマッチは、最後の3カウントを大の字で聞いて敗れた。

プロレスこそ、我が人生。1984年10月5日にデビューし、38年4カ月にも及ぶ長い旅路だった。プロレスとはその生き様を見せ、誰かに影響を与えるもの。その変わらぬ思いをこの日も体現した。

「闘魂三銃士」の同期・蝶野正洋が見守る中、巧みな寝技で内藤を攻めた。満身創痍も気力は充実していた。内藤のドロップキックを何度も受け、表情をゆがめた。我慢の時間、会場からは武藤コールが沸き上がった。痛む足を攻められても必死に耐えた。相手のスキを突き、足4の字固めで逆襲した。延髄斬りを食らった。シャイニングウィザードを出し、カウント2まで追い込んだ。一進一退の攻防。最後の勝負もまた名勝負だった。最後は内藤のデスティーノを食らい、体を抑え込まれて敗れた。

体はとっくに限界を超えていた。引退の原因となった股関節や腰の痛みだけでない。先月22日の化身グレート・ムタ戦で両足大腿(だいたい)部の肉離れを負い、「全治6週間」と言い渡された。

一時は引退試合出場に黄色信号。東京ドームのチケットの好調な売れ行きを聞く度に、街頭ポスターを目にするたびに、「自分に負けそう」「プレッシャーに押しつぶされそう」。そんな弱音が、口をついた。

それでも、死力を尽くして最後のリングにたどり着いた。再生医療やブロック注射、動かせる上半身のみでのトレーニングに懸命に励んだ。

「レスラーはヒーローじゃないといけない」

その思いが“プロレスリングマスター”を突き動かした。

「武藤敬司」を形成するのは、強烈な自尊心と無尽蔵のプロレス愛。ファンにも家族にも、そして自分にすらも、かっこ悪い姿は見せられなかった。

生活の中心にあるのは常にプロレスだった。

朝は決まって午前5時に起床し、メニューはもちろん、量も1グラム単位で決められた朝食をとる。

午前9時のジムのオープンに備えて、朝食の消化時間を逆算。就寝もトイレに行くことでさえも、ほぼ決められた時間に行う徹底ぶりを見せた。

還暦を超えてからも、余暇にカンフーの動画を視聴しては「この技をプロレスに生かせないかな」と考えていた。

寝ても覚めても-。その言葉を地でいく天才だった。

84年に新日本に入門。エースとしてプロレス黄金期を築き、同日入門の蝶野正洋、橋本真也(故人)と「闘魂三銃士」と呼ばれた。

02年に全日本に電撃移籍し、社長としても活躍。21年11月にはノアのGHCタッグ王座を獲得し、メジャー3団体でシングルとタッグの両王座を完全制覇した。

化身となる「魔界の住人」ムタは、全世界を席巻。ヒーローとして、時にはトップヒールとして、長きにわたり、プロレス界の最前線を走り続けた。

「かつて『プロレスはゴールのないマラソン』と言った自分ですが、ゴールすることに決めました」

昨年6月の引退発表時、武藤はそう言った。

だが、ゴールすると同時に、新たな夢の道を走り始めた。競技を転向し、五輪出場を目指すことも視野に入れている。

デビューから38年4カ月と16日の今日、数々の名勝負を繰り広げたリングからは降りた。だが、「武藤敬司」は“生涯現役”を貫き通す覚悟だ。

◆武藤敬司(むとう・けいじ)1962年(昭37)12月23日、山梨県生まれ。84年に新日本プロレス入門。同年10月デビュー。同日入門の蝶野、橋本と「闘魂三銃士」と呼ばれた。その後、米NWAに参戦。化身の「グレート・ムタ」としても活躍。02年に全日本に入団。11年まで社長を務めた。13年に「WRESTLE-1」を旗揚げ。20年4月からフリー。21年2月、プロレスリング・ノアに入団。188センチ、110キロ。

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