プレーバック日刊スポーツ! 過去の9月2日付紙面を振り返ります。2010年の1面(東京版)は初代若乃花の花田勝治氏死去でした。

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 第45代横綱初代若乃花で元二子山親方の花田勝治(はなだ・かつじ)氏が1日午後5時25分、腎細胞がんのため、東京・慶大病院で死去した。82歳だった。1946年(昭21)11月に初土俵を踏み、58年初場所の優勝で横綱に昇進した。幕内優勝10回。ライバルの栃錦とともに「栃若時代」を築いた。引退後は年寄・二子山として2横綱、2大関ら19人の関取を育て、日本相撲協会の理事長も務めた。現役時代は自らに、引退後は弟子に猛げいこを課し「土俵の鬼」と呼ばれた。横綱経験者としては初代梅ケ谷(83歳5カ月)に次ぐ、第2位の長寿だった。

 秋場所を前に「土俵の鬼」が逝った。花田さんの遺体は、この日午後8時15分ごろ、かつての弟子たちの手で東京・杉並区の自宅に戻った。棺(ひつぎ)は白い布に覆われ、鳴戸親方(元横綱隆の里)、松ケ根親方(元大関若嶋津)ら10人以上の男性の手により、屋外の駐車場から運び込まれた。弟子で、2代目若乃花の間垣親方はつえをつきながら訪れた。誰ひとり涙こそ見せなかったが、険しい表情で故人をしのんだ。

 次男浩氏(50)によると、94年に胃がんを切除。その後も再発、再切除が続き、腎臓、食道にも転移した。昨年には肝臓にも悪性腫瘍(しゅよう)が判明した。朝の散歩が日課で頑丈だった足腰も衰えた。昨春、孫が出場するボートレース「早慶レガッタ」の観戦で、隅田川を訪れたのが、最後の遠出になった。夏からは、つえや車いすを要するようになっていた。

 病状は担当医師からすべて伝えられており、医師の「年齢的にも体力的にもこれ以上の手術は好ましくない」との判断から投薬治療を行っていた。だが、最近になって急激に病状が悪化。がんは膵臓(すいぞう)などにも転移し、体重がほぼ半分に落ちていた。

 初土俵は、46年11月場所。入門時は76キロで、最高時でも105キロ。ソップ(やせた)力士の典型だったが、北海道室蘭で経験した幼少期からの重労働で鍛えた足腰を武器に、豪快な上手投げや呼び戻しの大技でファンを熱狂させた。56年の夏場所で初優勝。長男がちゃんこ鍋の熱湯をかぶり死亡する悲運も乗り越え、58年初場所後に第45代横綱へ昇進した。戦後、最軽量の横綱だった。

 「人間辛抱、けいこがすべて。けいこでけがしたら、けいこで治せ」と言い、連日70番〜80番、待ったなしの猛げいこを積んだ。横綱時代は横綱栃錦としのぎを削り、戦後の「栃若ブーム」を築いた。60年春場所千秋楽は、史上初(当時)の14戦全勝同士による一番を寄り切って完勝。全国の相撲ファンを大熱狂させた。

 62年夏場所前に引退した後、花籠部屋から独立。育てた関取は2横綱(2代目若乃花、隆の里)、2大関(初代貴ノ花、若嶋津)を含めて19人。22歳下の末弟、貴ノ花(元二子山親方)にも容赦せず、場所中も血だらけになるほど厳しく鍛えた。現役時代から通じて「土俵の鬼」だった。

 88年2月1日には、日本相撲協会理事長に就任。立ち合いの正常化に努め、「待った」の制裁金を導入(後に廃止)し、行司に「手をついて」と掛け声を徹底させた。92年初場所で初優勝したおいの貴花田(後の貴乃花)に天皇賜杯を授与したことが、理事長として、最後の仕事になった。

 浩氏は「相撲以外に趣味のない人でした。体を壊してからも調子のいい日には家で相撲を観戦し、新聞にも目を通していましたね」と振り返る。NHKの衛星放送で、幕下以下から相撲を見るのが、何よりの楽しみだった。だが、角界に不祥事が相次ぎ、7月の名古屋場所は生中継が見られなかった。

 8月12日に放駒親方(元大関魁傑)が理事長に就任すると、お祝いにネクタイを贈った。同15日、見舞いに訪れた理事長には、こう言った。「今は、本当に大変だな。一生懸命やって、協会をしっかり仕切れよ」。昭和の名横綱は、最後まで土俵に思いをはせながら、静かに天国へと召された。

 ※記録と表記は当時のもの