第51代横綱玉の海(本名・谷口正夫)は1959年(昭34)春場所で「玉乃島」として初土俵を踏んだ。15歳になったばかり。必死に食べて、懸命にけいこする毎日だった。176センチ、73キロの体は、少しずつ大きくなっていった。

柔道の経験を生かした力技で、勝っていった。初めて番付にしこ名が載った夏場所は、西序ノ口27枚目で6勝2敗。名古屋場所は西序二段105枚目で8戦全勝で優勝した。3勝4敗だった翌60年の名古屋場所まで7場所連続で勝ち越し。1年後には三段目上位まで番付を上げていた。

入門した二所ノ関部屋は屈指の大所帯だった。同期は部屋だけで7人。注目を集めていたのは玉乃島が入門した59年春場所に幕下筆頭で6勝し、関取になった18歳の大鵬だった。

元横綱大鵬の納谷幸喜「初めて彼を知ったのは、三段目のころかな。幕下以下だけで70人もいたから、名前を聞いても覚えられなくてね。ただ、ゴムのような柔らかい体で、しぶとい相撲を取るやつがいた。兄弟子の玉響さんが『柔道2段だったから、まだ投げばっかりの相撲で』と言いながら、なんかうれしそうに話していたよ」

二所ノ関部屋は、先々代二所ノ関親方(元横綱玉錦)の弟子たちが「衛星部屋」をつくっていた。それが、2010年2月の日本相撲協会理事選で話題になった今の「二所ノ関一門」になるのである。当時は花籠親方(元前頭大ノ海)が横綱初代若乃花を、佐渡ケ嶽親方(元小結琴錦)は大関琴ノ浜を育てていた。玉乃島をスカウトした玉乃海も、61年初場所限りで引退。年寄「片男波」となり、若き玉乃島に期待をかけていた。

片男波は、二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)と「1年後に独立」を約束していたが、動きはなかった。二所ノ関が、玉乃島の素材を惜しんだからだと言われている。しびれを切らした片男波は62年5月、19人の内弟子を連れ出す実力行使に出る。激怒した二所ノ関は、うち9人の「廃業届」を提出。これは「人権問題」と大きな騒ぎになった。時津風理事長(元横綱双葉山)が間に入り、何とか片男波部屋を設立。玉乃島も、西幕下8枚目だった62年名古屋場所から片男波部屋に移った。

18歳の玉乃島は飛躍の時期だった。このころはまだ、柔道のように腰に乗せての投げ、つりを得意としていた。弟子が少人数となり、けいこは師匠がマンツーマン指導。押されるともろかった相撲は、徹底的に直された。ちゃんこも周囲を気遣うことなく、腹いっぱい食べられるようになった。翌63年の秋場所に新十両。三河湾を泳ぎ、柔道で鍛えた体は足腰が柔らかく、亡くなるまでの76場所で休場は1度もない。上質の筋肉も、大きな武器だった。

十両を3場所で通過。20歳になった直後の64年春場所で新入幕した。体重もようやく100キロを突破。入幕後も5場所連続で勝ち越し、65年初場所には東小結まで駆け上がった。

この場所は相撲界にとって歴史的な変化があった。マンネリを打破しようと、時津風理事長が「部屋別総当たり制」を決断。今では当たり前だが、それまでは同じ一門の力士が本場所で対戦することがなかった。同じ出羽海一門の横綱栃ノ海(後の春日野親方)と大関佐田の山(同出羽海親方)の顔合わせ、多数の部屋に別れた二所ノ関一門同士の対戦-。見どころ満載の「改革」だった。

そして初日。結びの一番で新三役の玉乃島が土俵に上がった。仕切り線の向こうにいたのは、かつての兄弟子で、大横綱への道を歩んでいた大鵬だった。(敬称略=つづく)【近間康隆】

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◆二所ノ関一門の形成 元関脇海山が1911年(明44)に友綱部屋から独立して二所ノ関部屋を再興。継いで「6代目」となった現役横綱の玉錦が大きくし、7代目の元関脇玉ノ海が分家独立を推奨した。8代目の大関佐賀ノ花は横綱大鵬らを育成。同時期に花籠部屋を再興した元前頭大ノ海は横綱初代若乃花を、佐渡ケ嶽部屋を創設した元小結琴錦は横綱琴桜らを育てた。分家によって勢力を拡大し、09年までは5つの一門最多の14部屋が所属。だが役員選挙をめぐる混乱で、10年1月に貴乃花部屋と阿武松部屋、大嶽部屋の親方衆が「破門」された。