心洗われるとはこういうことなのだろう。子どもたちのキラキラした瞳にはうそが無い。抜けるような空、見わたす山々の稜線(りょうせん)は高地なのに丸みがあって優しい。

「ブータン 山の教室」(4月3日公開)は、中国と国境を接した標高4800メートルのルナナ村を舞台にしている。

教師の試用期間のような立場にいるウゲンは教職に意欲を持てず、オーストラリアに渡って歌手として暮らすことを夢見ている。首都ティンプーで暮らす彼は友人たちとクラブに通い、ナイトライフも楽しんでいる。「世界で最も幸せな国」と言われるブータンにも欧米的な娯楽が入り込み、若者たちの「幸福感」が変化していることをうかがわせる。

やる気の無いウゲンに上司の女性は辺地ルナナ村への赴任を命じる。冬に村が閉ざされるまでの3カ月限定。しぶしぶ引き受けたウゲンだが、バスの終着駅から1週間以上かけて険しい山道を上る行程で早速音を上げる。「先生」とあがめ立てる迎えの村人への愚痴が止まらない。

ナイトライフどころか、村には電気も無いが、村人はそこにあるもので、それなりに満たされている。首都ティンプーとは対極にあり、ブータンの精神文化のルーツのようなところだ。

都会っ子のウゲンが、冒頭で書いた村の景色や好奇心にあふれる子どもたちに触れて、しだいに心変わりしていくというのがこの映画の本筋だ。

ウゲン役のシェラップ・ドルジは自身も学業を中断して音楽家を目指しており、これが俳優デビュー作だという。そして、村人役にはルナナ村の住民がふんしている。パオ・チョニン・ドルジ監督は可能な限り、村人それぞれの事情を役柄に反映し、ドキュメンタリーのように撮っている。

実名のベム・ザムで出演している少女は役柄同様に父は酒浸り、母親は家出して祖母と暮らしている。にもかかわらず無邪気な笑顔は一分の隙なく美しい。教師のいなかった学校に「先生」を迎えて素直に笑い、別れのシーンでは涙を見せる。カメラを見るのも初めてという彼女の自然な振る舞いは、どんなに達者な子役もかなわない。

ブータン国民が誰もが知る「ヤクに捧(ささ)げる歌」が随所に使われる。荘厳だが、不思議に親しみやすい旋律だ。長い体毛を持つウシ科のヤクもシンボリックな存在として物語に絡む。ヒンズー教の牛のように神格化された存在とはちょっと違い、乳からチーズを作るのはもちろんだが、ハレの日には感謝とともに肉をいただき、その毛皮でテントを張る。高地の人々の生活はヤクとともにあるのだ。

乾燥したフンはストーブの着火材にもなり、それがウゲンと村人を結び付けるエピソードに巧みに使われている。村になじんだウゲンが「前世はヤク飼いだったかも」と笑うと、村長は「先生はヤクでした」と真顔で返す。最上級の褒め言葉なのだ。

監督は「100年前の日本はまさにブータンみたいな国だったのではないか、と想像します」と話す。インターネットの解禁は1999年。明治時代の日本にいきなりスマホが現れたようなものだからそのギャップは大きい。自給自足で「足るを知っていた」素朴な国に、いきなりスマホ文化が押し寄せたのだ。

監督はその現実を肯定も否定もせず、都会っ子を素朴な村に投げ込むことで象徴的に描いている。

一方で、ウゲンの心の奥にも食や物に対するブータンらしい節度があって、だからこそ村に溶け込める。

ルナナ村は1度は訪れたい場所だが、どっぷりと消費生活に漬かった身で、そこに住むのはやはり難しい。【相原斎】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「映画な生活」)

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