名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」第14回は、美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」です。ひばりさんの最後のシングル曲として知られますが、当初は別の候補曲がありました。

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1989年(平元)7月22日、蝉(せみ)時雨の東京・青山葬儀所で行われた美空ひばりさん(享年52)の本葬には、途切れることのない4万2000人が列をつくった。祭壇前で歌手仲間が、ひばりさんの最後のシングル「川の流れのように」を献歌した。人生を象徴したような名曲の合唱は、感涙のクライマックスとなった。日本コロムビアのディレクターとして、ひばりさんを13年間担当していた境弘邦さんは「ひばりさんは戦後最大の演出家。人生の幕引きまで自分で演出した。本当は最後のシングルは違う作品でした」と明かす。

「川の流れ-」はいわゆる“1並び”の平成元年1月11日に、ひばりさんにとって、320枚目のシングルとして発売された。昭和天皇が4日前に崩御し、年号が変わり、平成最初の発売CDだった。ひばりさんは「何でも一番が好き」だった。しかし当初320枚目のシングル曲は、ポップな「ハハハ」(秋元康作詞、高橋研作曲、若草恵編曲)に決定していた。男を信じ、夢を見た女が、現実を知り、自嘲気味に自分を笑うが“大丈夫よ”と立ち直る、そんな歌だった。

ひばりさんは、87年(昭62)4月に大腿(だいたい)骨骨頭壊(え)死などで入院。以降も、入退院を繰り返したが、ステージに立つなど、ひばりさんは“不死鳥”だった。そして、88年秋、新アルバムが制作された。「40代以上の方は、同時代を歩いてきた。若い子供たちには“歌のうまいおばさん”でいい。でも、長い間、歌手をやってきて30代の方々が抜けている。その空洞部分を埋めたいの」というひばりさんの意向を受け、おニャン子クラブらを仕掛けた売れっ子で、当時32歳だった秋元康さんが総合プロデューサーに抜てきされた。「不死鳥パート2」という仮題の、この新アルバムに収録するために「川の流れのように」と「ハハハ」は作られた。

アルバムからシングルを選び出す作業は難航しなかった。境さんも秋元さんも、そしてひばりさん自身も「ハハハ」で納得していた。秋元さんは「人生いろいろあっただろうひばりさんが、ハハハと笑ったら、どんなに勇気づけられるだろう、と思って書いた」という。88年10月28日、フジテレビ系「笑っていいとも!」に出演した際に、ひばりさんは、カセットを持ち込み「ハハハ」をいち早く聴かせて、「『真っ赤な太陽』以来の新鮮さよ」と大喜びだった。

ところが、12月1日のアルバム発売を直前に控え、ひばりさんが境さんに言った。「ねえ、『川の流れのように』をどう思う? 川は一滴の雨水が木の根を伝い、せせらぎになり、小川になり、いろんなものにぶつかり、蛇行して、大きな川に合流し、海に注いでいく。まさに人生賛歌よね。シングルはこれでいきたい」。境さんは反対した。当初のコンセプトから完全に外れてしまう。強く反対する境さんに、ひばりさんも「今日だけは、私に決めさせてくれない?」と1歩も譲らない。一瞬、頭さえ下げたように見えた。

境さんが知るひばりさんは不満も言うし、時には、すごいけんまくで怒りもした。ただ、何ごとも「これでいきましょう」と決めたら、覆したことは一度もなかった。普段と違う姿に驚き、その思いを最大限に尊重して、急きょシングルを変更した。アルバムタイトルも「川の流れのように・不死鳥パート2」に変わった。

平成元年1月11日、「川の流れ-」は発売された。それから5カ月後の6月24日、ひばりさんはこの世を去った。秋元さんは「病気に勝つすごい運を持っている人だという感動と、脈々と続くひばりさんの人生を川に例えて作った歌でした。その生き方が、勇気を与えてくれる」と振り返る。境さんは「今から思えば」と前置きした上で、「ひばりさんは自分の残された運命を悟っていたのだと思います。『川の流れのように』を最後の作品に、と自ら決めていたと思う。そしてもしかしたら、葬儀のエンディングに歌われることまで、決めていたのかもしれない」と話す。

名曲「川の流れのように」は、いまやカラオケの定番になった。大手カラオケ会社の調査では30代によく歌われているという。ひばりさんが気にかけていた空洞は、ちゃんと埋められている。【特別取材班】


※この記事は96年11月19日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。