「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」などの妖怪漫画で知られる、漫画家の水木しげる(みずき・しげる)さん(本名・武良茂=むら・しげる)が11月30日午前7時18分、多臓器不全のため、東京・三鷹市内の病院で死去した。93歳だった。代表作の鬼太郎は繰り返しテレビアニメ化され、映画にもなり、妖怪ブームを起こした。また、壮絶な戦争体験を反映した作品も数多く残し、戦争の悲惨さを訴え続けた。2010年には妻布枝さん(83)のエッセー「ゲゲゲの女房」がNHK連続テレビ小説でドラマ化され、人気を呼んだ。

 水木さんの遺体はこの日夜、東京・調布市の自宅に無言の帰宅をした。住職が自宅を訪れ、祭壇が運び込まれると、部屋の中からは「うぅ…うぅ…」と、身内と思われる女性の泣き声が漏れた。午後6時35分ごろ、ストレッチャーに乗せられ、白い布に包まれた水木さんの遺体が運び込まれると、再び女性の泣き声が聞こえた。近所に響き渡るような、大きな声だった。

 水木プロによると、水木さんは昨年12月に心筋梗塞で入院したが、今年2月の退院後は仕事場に通い、執筆を再開していた。しかし、11月11日に自宅で転倒。頭を打ち、東京都三鷹市の杏林大病院に救急車で搬送され、硬膜下血腫で緊急手術を受けた。一時回復したが、30日未明になって容体が急変したという。布枝さんによると、最期の会話は交わせず、アイコンタクトをしただけだったという。

 水木さんは幼いころ、家に出入りしていたお手伝いのおばあさん「のんのんばあ」から妖怪や霊の話を聞き、妖怪を生涯のテーマにした。代表作の鬼太郎は紙芝居画家だった1954年(昭29)に生まれ、貸本漫画家時代に「墓場鬼太郎」シリーズになった。65年、「墓場の鬼太郎」として「少年マガジン」で連載が始まり、67年に「ゲゲゲの鬼太郎」になった。翌68年にテレビアニメ化されると、水木さん作詞の主題歌とともに「砂かけばばあ」「子泣きじじい」などユニークなキャラクターが人気を呼び、09年まで繰り返しアニメ化され、妖怪ブームをもたらした。

 96年には世界妖怪協会を設立し、会長に就任。世界妖怪会議を開催し、お化け大学校を創設した。出身地の鳥取県境港市には03年、水木しげる記念館がオープンし、153体のブロンズ製の妖怪たちが並ぶ水木しげるロードも整備され、観光名所となった。妻布枝さんが水木さんとの半生をつづったエッセー「ゲゲゲの女房」(08年)が10年、NHK連続テレビ小説でドラマ化されると、さらに人気を集め、同年4月、米子空港も愛称が「米子鬼太郎空港」になった。同年、文化功労者に選ばれたほか、「ゲゲゲの女房」で流行語大賞も受賞した。

 水木さんは43年に徴兵され、パプアニューギニアのラバウルに出征した。玉砕を命じられながら生き延びたが、マラリアに苦しんだ。米軍の爆撃を受け、左腕を失った。「総員玉砕せよ!」「娘に語るお父さんの戦記」など戦争体験に根差した作品も数多く発表した。

 通夜、葬儀・告別式は近親者で行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻武良布枝(むら・ぬのえ)さん。

 ◆水木しげる 1922年(大11)3月8日、大阪市生まれ。生後間もなく鳥取県の境港に移り、15歳まで過ごす。太平洋戦争から復員後、職を転々し、紙芝居画家を経て58年、「ロケットマン」で漫画家デビュー。91年紫綬褒章。96年、一連の妖怪漫画で日本漫画家協会賞文部大臣賞。07年、「のんのんばあとオレ」で仏アングレーム国際漫画祭最優秀コミック賞。布枝夫人との間に2女。

 ◆ゲゲゲの鬼太郎 正義感の強い妖怪鬼太郎が、妖怪と人間が共存できる平和な世界を作るため、仲間の妖怪たちと一緒に悪と戦っていく物語。1954年(昭29)に水木さんが作った紙芝居が原点で、60年に貸本漫画として「墓場鬼太郎」シリーズが誕生。65年から「週刊少年マガジン」に「墓場の鬼太郎」として連載開始。67年から今のタイトルになり、68年にアニメがスタート。その後多数の漫画誌で連載し、アニメも第5期(07~09年)まで放送された。85年にドラマ化、07年と08年には映画化も。ゲームやパチンコシリーズなども多数ある。