ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏(享年87)は、1962年(昭37)の創業以来、数多くのタレントを世の中に送り出し、日本でのエンターテインメントの創出に力を注いできた。タレントの売りこみも自ら行い、担当記者にもいつも熱く語ってきた。そんなジャニー氏について、歴代のジャニーズ事務所の担当記者たちが悼んだ。

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ジャニー喜多川さんはカリスマ的な存在で、ベールに包まれているように思われがちだが、決してそうではない。夢を語り出したら止まらず、親しみを込めて接してくれる、人間味あふれる方だった。「夢を与えたい」という一心で時代を読み、実践し続けて来たからこそ、ジャニーズ王国を築けたのだと思う。

ジャニーさんが50代のころから、何度もインタビューした。「フォーリーブスの時代には、男の子がダンスを踊ると異常と言われた。今は当たり前。時代の先を行かなくてはいけません」。83年にディズニーランドが開業した。塵ひとつない清潔なパーク内で、冒険や未来のアトラクションが子供たちに夢を与えた。そのイメージで、85年に少年隊がデビューした。

90年代に入ると、大相撲で貴花田(後の貴乃花)がアイドル的な人気を誇った。「相撲でアイドルなんて考えられなかった。これからのアイドルはスポーツとの融合です」。その発想からSMAP(Sports Music Assenble People=スポーツと音楽の融合人間)が生まれ、ジャニーズの運動会や野球大会が頻繁に行われるようになった。

「よくどのグループも同じに見えると言われます。でも、個々のグループのキャラクターはまったく違う。美少年グループという意味でのワンパターンは大いに結構。それが母から娘に語り継がれ、ジャニーズというイメージで会場に来てくれるのです」。揺るぎない信念で語ってくれた。

都内の自宅マンションに「一緒にランチしましょう」と何度か呼ばれた。お手伝いのような方がいるだけで、コースのように料理が運ばれて来た。しばらくして1人の少年が入って来た。「この子、今度デビューするんです。野球が好きなんです」と私に紹介し、「ユー、楽しいかい?」と気さくに語り掛けた。あどけなさの残る中居正広だった。少年っぽさの中にも、もの怖じしない立ち居振る舞いが、今でも記憶に残っている。その中居らの活躍でジャニーズ事務所が大隆盛に向かうちょっと前のころで、ジャニーさん自ら有望なジュニアに会わせてくれた時代だった。

エンターテインメントを追求し、数々のショーや舞台を実現した。帝劇の貴賓室で昼食を取りながら構想を聞かせていただいた。ブロードウェーに負けないショービジネスを目指した。「アイドルという言葉と感覚は日本にしかありません。野球はアメリカの大リーグですが、日本をアイドルの大リーグにしたいですね」。情熱を持って語る口調は、いくつになっても少年のようだった。【元ジャニーズ事務所担当記者・笹森文彦】