フリーアナウンサー生島ヒロシ(70)がパーソナリティーを務める、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食/一直線」(月~金曜午前5時)が、来月5日に6000回目の放送を迎える。1998年(平10)4月6日の放送開始から23年。生島のアナウンサーとしての歩みを「生島ヒロシ6000回の歩み」と題して連載する。

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1975年(昭50)に、TBSにアナウンサーとして入社できたはいいけど、すぐ壁にぶち当たった。その時、先輩だった大沢悠里さん(80)に「お前、日記を書いているか」って聞かれたんです。「時々、反省文とか書いてますけど」って言ったら、「それを言葉でやるんだ、言葉で。テープレコーダーに吹き込んで、もう1度聞くんだ。この言葉が…」と。電車に乗っていても、見たものが口に出るように、すぐやれと。

まぁ、あの頃は、その2年間くらいは必死でしたね。どんどんボキャブラリーを増やせと。同じく先輩だった久米宏さん(76)から言われたのは「赤尾の豆単」じゃないけど、辞書を「あ」から毎日やっていって、ボキャブラリーを増やしたらと。でも、なかなか「わ」に行かないという(笑い)。

そういう感じで、なんて僕は勉強が足りないんだと思ってね。僕はアナウンサーには向いてないんだと思って、最初のボーナス時に言ったんです。アナウンス室長に「すみません、僕は何もやっていません。こんなのもらえません」って言って返そうとしたんです。「何言ってるんだ。そんなの返されても困るんだよ」って言われましたけど。

僕はアメリカで、自分で働いて金を稼いで、学校に行ってきました。TBSにアナウンサーとして入社してからは、毎月、給料をいただいているのに大したことはしてなかったんです。毎日、映画を見たり、芝居を見たり、コンサートに行ったり。そういうものに触れるのが大切なんだと言われてね。そこは、今のアナウンサーとは違う。そういうものは全部、自分の肥やしになるんだからと。

本だって出版社がいろいろ持ってくるけど、自腹で買いました。先輩のディレクターに「コンサートだって、ただじゃダメだよ。招待券じゃなくて、自分で金を払ってかないと、自分のものにならないから」と言われて、なるほどそうかと。見るもの、聞くもの全てがアナウンサーとしての勉強。新聞だって、テレビ欄も、ラジオ欄も見ると同時に広告もあるでしょ。チラシも全部見て、チラシからいろいろなものが見えてくるんだって言われて。そんなこと考えてもみなかった。そんなことを1から10まで教えてもらって、必死でやりましたね。

でもやっぱり、最初のボーナスの時に、俺は向いていないと思って辞めようかと思いました。こんなことじゃ、自分自身が甘やかされるなと思ってね。そうして、アメリカ留学時代の空手の先輩に「いや~、ダメなんですよ。全然、向いてない」って愚痴をこぼしたんです。そうしたら「お前な、TBSのアナウンサーなんて、そんなに簡単になれるもんじゃないぞ、ここで辞めてどうする」って。

アメリカ留学時代におやじが病気になって「卒業しないで帰ります」って報告した時も諭してくれた。「お前な、きちんと卒業して、きちんと形を作って帰らなきゃ、その先が全然違うんだぞ」って。和田さんっていう先輩なんですけど、「ここで諦めちゃダメだ。みんな最初は壁があるんだから、それを乗り越えていけ」って励ましてくれました。それで脇目もふらずに頑張りましたね。

(続く)

◆生島(いくしま)ヒロシ 1950年(昭25)12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。71年に法大経営学部を中退して渡米。75年カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。76年TBS入社。89年にフリー。現在のレギュラーはTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食・おはよう一直線」(月~金曜午前5時)。長男は俳優生島勇輝(36)次男は俳優生島翔(35)。血液型A。