「13代目市川團十郎白猿」襲名披露興行が7日から東京・歌舞伎座で始まり、12月まで2カ月間続きます。
市川海老蔵(44)が13代目團十郎、堀越勸玄(9)が8代目市川新之助を襲名するもので、大名跡「團十郎」は9年ぶりの復活です。襲名披露興行は大幹部がずらりと並んだ「口上」もあって華やかに盛り上がります。過去に大々的に行われた襲名披露興行を振り返ります。
◇ ◇ ◇
11代目市川團十郎=1962年
襲名披露興行は江戸時代からありましたが、現在のように華やかで大規模に行われるようになったのは、62年の海老蔵の祖父の「11代目市川團十郎」襲名が最初でした。当時は映画全盛の時期で、観客動員で苦戦していた歌舞伎界のカンフル剤としてこれまでにない規模で行われ、宣伝文句に「松竹の社運を賭す」という言葉がおどったほどです。興行は4月、5月の2カ月間で、出演した歌舞伎俳優は250人を超え、「口上」にも幹部俳優に成田屋一門の約80人が並ぶ壮観さでした。「世紀の大襲名」「1億円の歌舞伎祭典」などと言われましたが、当時の歌舞伎専門誌によると、実際には2億4000万円もの収入があったそうです。
7代目尾上菊五郎=73年
團十郎と並ぶ大名跡である「菊五郎」の襲名興行は11月、12月の2カ月間でした。名優6代目菊五郎の没後、24年ぶり復活とあって、ホテルオークラでの盛大な披露パーティー、浅草寺での成功祈願とお練りなどが盛大に行われました。入場料も1等席が前月の2900円から3800円と3割も値上げされましたが、チケットの前売り初日には窓口に長蛇の列ができるほどで、2カ月間で28万人の観客を動員しました。チケットの入手が困難だったため、買えなかったファンの「一部の客が買い占めているのでは」との投書が新聞に掲載され、当時の歌舞伎座支配人が「そのような事実はありません」と釈明する一幕がありました。
初代松本白鸚、9代目松本幸四郎、7代目市川染五郎=81年
親子孫3代の同時襲名興行が10月、11月の2カ月間行われました。前売りでは開始の午前9時に徹夜組を含めて1000人以上の行列ができ、その後も並ぶファンが後を絶たなかったため、窓口業務を2時間半も延長する事態となりました。それから37年後の2018年1月、2月には「2代目白鸚、10代目幸四郎、8代目染五郎」の親子孫3代同時襲名興行が2カ月間行われました。当時の天皇・皇后両陛下が観劇に訪れましたが、皇太子時代にも1981年の同時襲名を観劇しました。
12代目市川團十郎=85年
父11代目團十郎の死から20年ぶりの「團十郎」復活に4月から6月までと前代未聞の3カ月もの襲名興行となりました。7月には米国に渡り、ニューヨークの名門劇場「メトロポリタン・オペラハウス」で初めて海外での襲名興行が実現。当時は歌舞伎人気が低迷、起死回生の一大イベントとなり、1年前に全演目と主な出演俳優を発表しました。前例のない5カ月前の前売り発売を行い、3カ月間の出演俳優は延べ500人、30万人の観客が詰めかけました。入場料も1等席が前月の8500円から1万円となり、「30億円襲名興行」と言われるなど、社会現象ともなりました。
11代目市川海老蔵=2004年
父10代目の海老蔵襲名の時(1969年)は1カ月間でしたが、新之助は人気があったため、異例なことに襲名興行は5月、6月と2カ月間も行われました。帝国ホテルでの襲名を祝う会には当時の小泉純一郎首相をはじめ政財界、歌舞伎界から約2500人が出席し、成田山新勝寺での襲名奉告お練りには延べ2万5000人が参集しました。初日から10日後に父團十郎が急性白血病で入院、休演しましたが、10月にパリのシャイヨー劇場で行われた、歌舞伎史上初の襲名パリ公演で復帰を果たしました。
18代目中村勘三郎=05年
3月から5月までと、12代目團十郎以来の3カ月もの襲名興行となりました。それだけ、勘三郎の人気が抜きん出ていました。浅草寺のお練りには沿道を約3万人が埋め、雷門から本堂までの400メートルを45分かけて練り歩きました。入場料も1等席は2万円に値上げされましたが、チケットは発売と同時に完売。客席は連日満員でした。歌舞伎座に続く大阪、名古屋など地方での襲名興行を含めて約70万人が観劇するなど、過去の襲名興行の記録を更新。歌舞伎座の千秋楽では、勘三郎は胴上げされ、歌舞伎としては珍しいカーテンコールが4度も続くなど、異例ずくめでした。
◆13代目市川團十郎白猿襲名披露興行
当初は歌舞伎座で20年5月から7月までの予定でしたが、コロナ禍で延期となり、11月、12月の2カ月間となりました。10月22日に成田山新勝寺でお練りが行われ、10月31日と11月1日の襲名披露記念の特別公演では「顔寄せ手打ち式」と團十郎の弁慶、片岡仁左衛門の富樫、坂東玉三郎の義経で「勧進帳」が上演されました。
7日からの襲名興行は昼の部で「祝成田櫓賑」、新之助の「外郎売」と團十郎に松本幸四郎の富樫、市川猿之助の義経の「勧進帳」。夜の部は「矢の根」と「口上」、團十郎の「助六由縁江戸桜」。12月は5日初日で、昼の部は「鞘當」、團十郎、菊之助、勘九郎の「京鹿子娘二人道成寺」、新之助の「毛抜」、夜の部は「口上」に市川ぼたんの「團十郎娘」と「助六由縁江戸桜」。
◇ ◇ ◇
襲名興行はおめでたいことばかりではありません。歌舞伎の長い歴史の中では襲名興行をめぐってさまざまな悲しいドラマもありました。
3代目市川猿之助=1963年
祖父2代目猿之助が初代猿翁、3代目団子が3代目猿之助、弟の亀治郎が4代目団子と、祖父・孫の同時襲名でしたが、猿翁は病気のため5月3日の初日から休演。父親の3代目段四郎も病床にあったため、中心となる当主がいない襲名興行となりました。かわいい孫、子供のために猿翁と段四郎は千秋楽までの3日間だけですが、医師の付き添いで「口上」のみに出演。舞台上の父子は泣きながらあいさつし、観客もすすり泣くという劇的な「口上」でした。猿翁は翌6月、段四郎は同年11月に亡くなり、ともに口上が最後の舞台となりました。
6代目中村勘九郎=2012年
勘太郎は2月に新橋演舞場、3月には平成中村座で「勘九郎」襲名興行を行いました。自ら46年間名乗った「勘九郎」を襲名した息子の姿を傍らで見守った父の勘三郎は6月に食道がんと判明し、長期療養に入りました。12月に京都・南座の「顔見世興行」で襲名披露が行われましたが、公演中の5日未明に勘三郎は亡くなりました。勘九郎は弟の七之助とともに4日の公演後に帰京し、父の死をみとった後、京都に戻り舞台に立ちました。5日夜の「口上」で勘九郎が「父のことを、忘れないでください」と声を詰まらせると、観客からは「頑張れ!」の声が飛びました。千秋楽の翌日に築地・本願寺で本葬が行われ、一般ファンも含めて1万2000人が弔問しました。
7代目中村歌右衛門=14年
13年9月、中村福助が7代目歌右衛門、息子の児太郎が10代目中村福助を襲名し、親子の襲名興行は新装開場する歌舞伎座のこけら落としとして14年3月、4月に行われることが発表されました。しかし、福助は発表会見から2カ月後の11月に脳内出血による筋力低下のため長期療養を余儀なくされ、襲名興行も延期されました。18年に舞台復帰したものの、完全復活とはならず、襲名興行は延期したままとなっています。