島倉千代子さん(享年75)の人生は、幸と不幸、明と暗の繰り返しだった。暗の面では、幼少期に左手に47針縫う大けがをして以来、失明の危機、家族との絶縁、死別、乳がんがあるが、「振り返ると遅れちゃう。1歩進めるところが半歩になってしまう」と前向きに、笑みを絶やさずにいた。後輩歌手たちへの思いやりも深く、優しく、時には厳しく接した。そんな姿を思い出し、芸能関係者は悲しみに暮れた。

 <歌詞>死んでしまおうなんて

 悩んだりしたわ…

 「人生いろいろ」の歌い出しである。

 1944年(昭19)、太平洋戦争中に疎開した長野で、井戸から手押し車で水の入った瓶を運んでいる途中に割り、左手首から肘にかけて大けがをした。切断は免れたが、47針を縫い不自由になった。外で遊べない生活が続き、歌と出会った。

 54年に第5回コロムビア全国歌謡コンクールで優勝しデビュー。「この世の花」がヒットしアイドル的な人気を得たが、事件にも巻き込まれた。「東京だョおっ母さん」が大ヒットした57年の3月、島倉さんを殺害しようとした16歳の無職少年が逮捕された。この年の1月には、美空ひばりさんが浅草の劇場で19歳の女性から硫酸をかけられる事件が起きていた。さらに、62年には後援会事務所に爆弾が送りつけられ、けが人が出た。「草加次郎事件」の1つだった。

 その前年の61年には「恋しているんだもん」が大ヒットしたが、ファンが投げたテープが両目にあたり失明の危機に陥った。父が他界した63年に阪神タイガースの藤本勝巳さんと周囲の反対を押し切り結婚するも、すれ違いの生活で5年後に離婚した。

 75年には知人に頼まれ実印を貸したことで、16億円ともいわれる借金を背負い、返済の日々を送る。87年に「人生いろいろ」が大ヒットし、再ブレークするも、その年に姉敏子さんが東京・目黒川で投身自殺した。敏子さんは歌が上手だったが、体に障害があり歌手になる夢をかなえられなかった。05年に手記「島倉家

 これが私の遺言」を発売した際、金銭トラブルに触れ「姉の敏子が自殺した目黒川に何度となく足を運びましたが、死にきれなかった」と記した。

 89年に敬愛するひばりさんが亡くなり、93年には乳がんを告白。スポットライトの陰には、さまざまな苦難があったが、島倉さんは「わが人生、波瀾(はらん)万丈。つらいことがありすぎました。しかし人を恨まないようにしている。憎んで言葉にして愚痴っても、自分の気持ちは救われない。むしろ惨めになる。だから振り返らない。振り返ると遅れちゃう。1歩進めるところが半歩になってしまう」と話していた。

 <歌詞>女だっていろいろ

 咲き乱れるの…の人生だった。【笹森文彦】