12年自民党総裁選に出馬の際、日刊スポーツなどのインタビューに笑顔を見せた安倍晋三元首相(2012年9月12日撮影)
12年自民党総裁選に出馬の際、日刊スポーツなどのインタビューに笑顔を見せた安倍晋三元首相(2012年9月12日撮影)

安倍晋三元首相が、参院選応援のさなかに、男に銃撃されて命を落とした。安倍氏ほど大物政治家の暗殺など、戦後の政治史で前代未聞だ。自民党が野党に転落した1993年の衆院選で初当選した後、森、小泉内閣の官房副長官、小泉内閣時代の自民党幹事長サプライズ抜てきなどで話題になってから、20年あまり。安倍氏が日本政治の表舞台にいることが、当たり前のように感じていた。その安倍氏がこんな形で、突然この世からいなくなった。衝撃は大きい。

安倍氏は、一般紙などの政治報道に比べれば、けして「王道」とは言えないスポーツ紙の政治担当記者の取材を、こまめに受けてくれた首相だった。安倍氏を事実上の「後継」とした前任の小泉純一郎氏も同じだが、安倍氏は在任期間が長い分、話を聞く機会も多かった。国政選挙に合わせたタイミングが多く、また、第2次政権も半ばを過ぎると話を聞ける機会はだんだん減ってはいたが、最初のころはかなりざっくばらんに、さまざまな話をしていた。当時の取材メモを一部、引っ張り出して読み返すと、そう実感する。

2006年自民党総裁選に向け、地元下関市で激励会に出席した時の安倍晋三元首相(左)と昭恵夫人。右は安倍氏の母洋子さん(2006年8月12日)
2006年自民党総裁選に向け、地元下関市で激励会に出席した時の安倍晋三元首相(左)と昭恵夫人。右は安倍氏の母洋子さん(2006年8月12日)

2006年9月、小泉氏の事実上の後継が確実視される中、自民党総裁選に出馬する際は、国会近くのホテルでインタビューした。尊敬する吉田松陰の言葉「志定まれば気盛んなり」に重ねて、自民党総裁=首相への心構えを語った一方、この年に行われた野球のWBCで日本が初代王者になったことや、プロ野球ペナントレースの行方の話題になると、野球モードに。

夏の甲子園では、優勝した早実の斎藤佑樹氏が「ハンカチ王子」として時の人になったが、斎藤氏に質問が及ぶと「大変、冷静なマウンドさばきだった。スタンドの大群衆、多くの国民が注視して期待されている大変なプレッシャーを、10代の若さで自分のエネルギーに跳ね返すことができたのかなと思う」と冗舌に語った。

自身のハンカチの活用法は?と脱線気味の質問にも「私はあまり汗をかく方ではなく、あまり使うこともない。(「昭恵夫人が持たせてくれる?」)そう」と笑い、ハンカチで汗をかくポーズも取ってくれた。

このインタビューから1年後、安倍氏は持病の潰瘍性大腸炎が悪化し、第1次政権を退くことになる。退陣の2カ月前に行われた参院選前に話を聞いた際は「総理の仕事は毎日が修行のようなものだが、つらいと思っていてはつとまらない」と、腹をくくったように話していた。辞任後、あの頃にもう持病を抱えていたのだなあと、思い返したことを覚えている。

2012年に再チャレンジで自民党総裁選に出馬する際は、自民党本部で記者会見した後、スポーツ紙各紙との取材の場を別に設けてくれた。その場では、潰瘍性大腸炎の闘病を詳細に振り返り「官房長官や自民党幹事長もこなせたので自信をもって総理になったが、外遊中に病状が悪化した」と話す一方、その後の治療で効果があったとして「内視鏡で腸の中を見たんですが、こんなにきれいだったんだと。見たくないかもしれませんが、(皆さんに)情報公開してもいいくらいですよ」と、語っていた。

事前の下馬評はけして優勢ではなかったが、期待を集めて2度目の総裁に選ばれた。ここから、8年あまりの長期政権が始まる。再チャレンジへのあくなき欲求、なりふり構わない泥臭さ。第1次政権の時のスマートさとの違いは明確だった。

国民栄誉賞授与セレモニー後、長嶋、松井両氏がサインをした「96」のユニホームを披露した時の安倍晋三元首相(2013年5月5日撮影)
国民栄誉賞授与セレモニー後、長嶋、松井両氏がサインをした「96」のユニホームを披露した時の安倍晋三元首相(2013年5月5日撮影)

安倍氏は、スポーツ界とのつながりも多かった。元横綱大鵬の故納谷幸喜さん、長嶋茂雄巨人終身名誉監督と松井秀喜氏に国民栄誉賞を授与することを決めた際にも、話を聞く機会があった。長嶋さんには少年時代、地元の野球教室で指導してもらい、交流を続けていると教えてくれた。少年時代はサンケイアトムズ(現ヤクルト)のファンでアンチ巨人。その話を、東京ドームで行われた長嶋、松井両氏への授与セレモニーの際、巨人ファンがいっぱいの観衆の前で口にすると、当然ながらファンがどよめいた。終わった後「あんなに反響があるとは」と笑っていた。セレモニーの始球式では投手松井氏、バッター長嶋氏の背後で球審を務め、松井氏に贈られたボールを、うれしそうに握っていた。

国民栄誉賞のセレモニー後、始球式で松井秀喜氏が投げたボールを披露した時の安倍晋三元首相(13年5月5日撮影)
国民栄誉賞のセレモニー後、始球式で松井秀喜氏が投げたボールを披露した時の安倍晋三元首相(13年5月5日撮影)

第2次政権が半ばを過ぎ、安保法制やモリカケ問題など、政権にさまざまな問題が出ると、直接話を聞ける機会は減っていった。その代わり、日々の国会審議を中心に細かくウオッチを続けた。予算委員会では時にやじに逆上し反論し、棒読み答弁を続けたりという姿を何度も目にした。直接接した際には人当たりがよく、話も、頭も、柔らかかった。ギャップに驚いたことは1度や2度ではない。

今年は2月に石原慎太郎元東京都知事がこの世を去った。信条的に近い安倍氏は、6月のお別れの会で持論の憲法改正を念頭に「先生なきこの世で、私の責任を果たさなければならない」と、語った。それから1カ月後、凶弾に倒れるとは、思いもしなかった。【中山知子】