2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公に決まり、戦国時代の武将、明智光秀があらためて脚光を浴びている。主君の織田信長を恨んで謀反を起こし、信長を死に追い込んだ“悪役”のイメージが強い。一方で、「現代に伝わる光秀像は、その多くが後世の創作」として、これまでの説を真っ向から否定する歴史研究家がいる。光秀の子孫の明智憲三郎氏(71)で、著書は異例のロングセラーになっている。同氏に聞いた。
明智氏は、光秀の側室の子、於寉丸(おづるまる)の子孫という。慶大大学院修了後、三菱電機に入社。情報システムのエンジニアとして勤務する傍ら、光秀の調査・研究を続けた。退職後の13年に出版した「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)は現在まで約40万部を売り上げ、歴史書としては異例のロングセラーになっている。光秀が大河ドラマの主人公になることについては、こう語る。
明智氏 地元の方々の熱意が実を結んだということで、大変良かったなという思いです。NHKは「全く新しい解釈で描く」とうたっています。これまでの絵空事の光秀像ではなく、正しいことをベースに描いてほしいですね。大河ドラマの影響力は大きいですから。
「本能寺の変 431年目の真実」など明智氏の著作は、これまでの光秀に関する通説をことごとく否定している。安土桃山時代や江戸時代に書かれた光秀に関する文書を読みあさり、こつこつと“証拠”を積み上げた。理系のノウハウを生かした手法を、自ら「歴史捜査」と名付けている。
明智氏 現在の光秀像は、本能寺の変の直後に書かれた「惟任(これとう)退治記」がベースになっているんです(惟任とは光秀が朝廷から贈られた姓)。これは天下を取った豊臣秀吉が自らを正当化するために書かせた報告書です。これを基にして、江戸時代にさまざまな軍記物が書かれ、面白おかしく逸話が創作された。それが歌舞伎や人形浄瑠璃になって一般に広まり、現代につながっているんです。
明智氏によると、光秀が主君の信長にいじめられ、それを恨んで謀反を起こしたという通説は、「惟任退治記」に秀吉が書かせた“つくり話”。光秀の有名な言葉「敵は本能寺にあり」や、光秀の母が信長のために殺されたという逸話なども後世の軍記物の創作だという。
明智氏 秀吉は本能寺の変を個人的な恨みつらみの話にしてしまいたかった。それが都合よかったのでしょう。普通に考えれば、あのレベルの人たちが、そんなことで殺し合うわけがない。変だよねと思う方は現代にもたくさんいらっしゃる。それが歴史上の大きな謎として、興味や関心を集めているのではないでしょうか。
では、何で光秀は謀反を起こしたのか。明智氏は、光秀が一族を守るためにやむを得ず決起したという説を唱える。信長と親交があった宣教師ルイス・フロイスの「日本史」に、信長が日本の絶対君主になった暁に、唐入り(中国侵攻)を考えていたという一節がある。秀吉は文禄・慶長の役で朝鮮に攻め入ったが、信長はそれ以前に大陸侵攻を構想していた。謀反までにいくつかの伏線があり、唐入り阻止が決定的な引き金になったとみる。
明智氏 唐入りが実行されれば、光秀自身は高齢で行かなくても、子供たちが大陸に送り込まれて一族が滅亡してしまう。その危機感は相当なものだったでしょう。戦国武将というのは、一族を後代まで繁栄させるというのが大きな使命だったのです。現代の人には分かりづらいかもしれませんが、この考え方を理解する必要があります。
長年の研究から浮かび上がった光秀像は「弱々しいエリートではなく、苦労の末にはい上がった、たくましくて実行力に富んだ人物」だという。今年夏にも河出書房新社から新刊を出す予定。謎が多かった前半生にもスポットを当てた、光秀研究の“決定版”になるそうだ。
明智氏 光秀の子孫として、真相を知りたいという思いだけでやってきました。戦前は教科書に「逆臣光秀」などと書かれ、父や兄はつらい思いをしたようです。私も子孫であることは周囲に話せなかった。ようやく自分の役割を果たしたという感じで、今はすっきりした気分ですね。【田口辰男】
◆本能寺の変 天正10年(1582年)6月2日早朝、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を、明智光秀率いる軍勢が襲撃。信長は自ら館に火を放ち、自害した。光秀は、備中高松城攻略から戻った秀吉に山崎の戦いで敗れ、敗走する途中に死んだとされる。
◆明智憲三郎(あけち・けんざぶろう)1947年(昭22)5月8日生まれ。09年に最初の研究本「本能寺の変 四二七年目の真実」(プレジデント社)を出版。「本能寺の変 431年目の真実」を原案にしたコミック「信長を殺した男」(秋田書店)もヒットしている。「歴史工房」を主宰。