2020年東京オリンピック(五輪)聖火ランナーの募集が17日、始まった。08年4月1日以前に生まれた人なら、国籍、性別を問わず応募できる。

前回64年の東京五輪で聖火台に点火した最終走者、故坂井義則さんの「控え」だった落合三泰さん(72=群馬県安中市)も応募することを決めた。「あのときの感動を今度は走って確かめることができたら」と話している。

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「2013年9月に東京に決まって間もなくだったと思います。坂井さんがラジオ番組で『どんな形でもお手伝いできれば』と話すのを聞いて、いいなと思っていたんです。でも翌年、亡くなられて。ああと思うと同時にラジオで話されていたことを思い出したんです。坂井さんが考えていたのは多分、ランナーとして1964年の東京から2020年の東京に聖火をつなぐこと。厚かましいけれど、あのとき控えだった僕が代わりができるならと思ったんです」。聖火ランナー応募の動機を落合さんはこう明かす。

64年東京五輪の最終走者は、日本人初の五輪金メダリストの織田幹雄氏(28年アムステルダム大会3段跳び優勝)を軸に調整されていたとされる。しかし、織田氏は「ぜひ若者たちに」と固辞。8月初めに当時早大1年の坂井さん、高校2年の落合さんら東京と近郊在住の10代の陸上選手10人が最終日の走者候補に選ばれた。最終的に最終走者となったのは原爆が投下された45年8月6日に広島県で生まれた坂井さんだった。

「9月半ばごろだったと思います。聖火ランナーの指導をしていた中村清先生(早大競走部監督)から『君は坂井君の控えをやってもらうから』と言われました。聖火を受け取ってからグラウンド3分の2を走り、聖火台まで182段の階段を上って何分何秒で点火するという決められたペースを守ることやランニングフォームでは坂井さんに太刀打ちできないものがありました」(落合さん)。

10月10日の開会式当日、落合さんは坂井さんのそばで待機し、中学3年で最年少ランナー鈴木久美江さんから聖火を受け継いだ坂井さんが国立競技場に入るまで後を追って走った。聖火台への点火はスタンド下で見た。「言葉にならない感動がありました。あの感動を今度は走って確かめられたらと思っているんです」。毎朝1時間の散歩に上り坂300メートルの強めのジョギングを加えた。「走れたらいいなと、今、それぐらい気持ちを入れています」と話している。【中嶋文明】

◆64年東京五輪聖火リレー 米国統治下の沖縄をスタートし、4ルートに分かれて34日間で全都道府県を回った。走行距離6755キロ(4374区間)。伴走のランナーとともに1区間1~2キロを5~10分で走った。最終走者の坂井さんは「1万713人目のランナー」と呼ばれた。当時、山梨県立都留高校3年で卓球部主将だった落語家三遊亭小遊三も走っている。

◆20年東京五輪聖火リレー スポンサー企業枠、47都道府県枠があり、スポンサー企業枠は日本コカ・コーラが17日午前0時に募集を開始した。24日にトヨタ自動車、日本生命、NTTが受け付けをスタートする。47都道府県枠は7月1日からで、締め切りはいずれも8月31日。応募はスポンサー企業4社に各1回ずつと希望の都道府県1つで、1人最大で5回まで可能。国籍、性別などは不問で、08年4月1日以前生まれが条件になっている。ランナーは全国で約1万人が予定され、スポンサー企業枠が約7500人、47都道府県枠が約2500人となる見通し。当選者には12月以降、通知される。聖火リレーは3月26日、福島県のJヴィレッジをスタートし、7月24日まで121日間、1ルートで全国を回る。1人当たりの距離は約200メートルで、64年五輪の5分の1~10分の1と短い。

◆坂井義則(さかい・よしのり)1945年(昭20)8月6日、広島県三次市生まれ。64年東京五輪は陸上400メートル、1600メートルリレーの強化選手だったが、代表選考会で敗れた。66年アジア大会では400メートルで2位、1600メートルリレーで優勝したが、故障で競技を断念。68年、フジテレビに入社した。14年9月10日、69歳で死去。

◆落合三泰(おちあい・みつやす)1947年(昭22)千葉県生まれ。東京五輪が開かれた64年の高校総体5種競技2位。早大に進み、2年時に日本選手権10種競技で優勝。ユニバーシアードには出場したが、足首の故障もあり、五輪には届かなかった。早大競走部では坂井さんの2年後輩。