東日本大震災による津波で孤立した宮城県気仙沼市の離島・大島で、島民の唯一の足として活躍した小型船「ひまわり」。昨年4月に運航を終えてから、もうじき1年になる。船長だった菅原進さん(77)を中心に「震災遺構」として保存する活動が行われ、今月下旬にも船を保管する記念館の工事がスタートする。

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「昨年11月に地鎮祭をやって、今月下旬にやっと工事が始まる。完成するまで1、2カ月くらいかかる見込みです」と菅原さん。高台にある自宅に隣接する私有地(約300平方メートル)に作る記念館について「きっと多くの人が訪れてくれる。船の展示場の隣にはカフェを作って憩いの場所にする。そこの収入を記念館の維持管理費にあてるつもり」とそろばんをはじいていた。17年12月設立の「臨時船『ひまわり』を保存する会」には、震災後の大島で慰問コンサートを開催した歌手さだまさし(67)が名誉顧問として就任。支援コンサートなどでバックアップをしてきた。

震災直後、定期船が約8カ月も稼働できなかった大島では、人や荷物を無償で運ぶ「ひまわり」だけが孤島の命綱だった。奮闘ぶりを米CNNなど多数の海外メディアが大きく報じ、国内でも小学生の道徳副読本が採用。この活躍に注目が集まり、菅原さんは東京五輪・パラリンピックの聖火リレーの走者に抜てきされた。6月下旬に気仙沼市内を走る。「震災から9年がたって島の8割くらいは復興してきている。『被災地の今の姿』を世界中の人たちに見てもらい、支援への感謝の気持ちを伝えたい」。毎日2キロのジョギングを欠かさずに準備しているという。「聖火のトーチは長さ60センチで重さが約1・5キロ。だから、同じくらいの重さのハンマーを手に持って走るトレーニングをしているんです」。

14年夏に前立腺がんが判明。医師からは手術を勧められたが「船を動かさないといけない」と拒否し、放射線治療を受けながらかじを握り続けた。「今では数値もすごく小さくなってほぼ良くなった」と病気と闘っていることも笑顔で明かした。

自宅には今でも観光客らが訪ねてくる。「震災のことは決して風化させてはいけない。特に子どもたちには『ひまわり』を見て、命を大切にすることを学んでほしい」。半世紀にわたる船長生活を終えた菅原さん。今は“震災の語り部”として第2の人生を歩み始めている。【松本久】

◆大島の現状 気仙沼市役所観光課によると、震災前年に31万6200人訪れた観光客が18年は9万3700人と3割しか戻らなかった。ところが、19年4月7日に本土と大島を結ぶ「気仙沼大島大橋」が開通すると、8月18日までに推計で49万人以上が島を訪問。わずか4カ月強で18年の5倍以上の観光客が訪れる盛況ぶりだ。予想を上回る集客に、観光客向けの飲食店や土産物店、駐車場の整備などは立ち遅れているが、大きな経済効果をもたらしていることは間違いない。