海部俊樹元首相が亡くなった。91歳だった。

海部首相には自宅で取材させてもらったことがある。1989年(平元)の夏休み最中のことだった。当時、スポーツ新聞の社会面はできたばかりで、事件ものは山口組と一和会の抗争をはじめとして積極的に取材した。

問題は政治だ。プロレスラーだったアントニオ猪木氏(78)が7月の参議院選挙で初当選して、普段からプロレスに紙面を割いていた日刊スポーツには大いに協力してもらった。だが、それ以外の取材では苦労していた。

宇野宗佑元首相が女性問題で退陣することになり、後継選びが始まった。海部さんが候補に挙がったが、難航した。最後は当時“金竹小(こんちくしょう)”といわれた竹下派・経世会の金丸信会長、竹下登元総理、小沢一郎自民党幹事長が話し合って、海部首班で行くことが決まった。

それが8月4日の夜のことだった。そして、翌朝に東京・三番町の自宅前で会見に応じるという。夏休みで伊豆の友人の実家に遊びに行っていたのだが、翌朝早くに車で出発して駆けつけて取材した。そんな訳で、埼玉の実家に戻って着替えている時間がなく、白いポロシャツ姿で海部さんの後ろに陣取って、テレビの生中継インタビューに聞き耳を立てた。

その後に、幸世夫人に台所で料理をしているところを取材させてもらった。幸世夫人がサラダを混ぜているところを写真に撮らせてもらった。ご夫婦共に、スポーツ新聞が政治を取材することに大きな理解を示していただいた。長男の正樹さんがTBSにいて、芸能番組を担当していたのも後押ししてくれたと思う。その後、翌90年の衆院選からはスポーツ紙が政治を取材するのが普通になり、今に至る。

まだ、ネットのない時代。スポーツ紙が変革を迎えていた時代、総理就任直前という節目に優しく迎えて協力してくれた。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。【小谷野俊哉】