発明家のドクター・中松氏(本名・中松義郎=94)が「発明の日」の18日、東京・世田谷区のドクター中松ハウス内に「ドクター中松発明博物館」を開館した。

米ニュージャージーには、1093件の発明をした“発明王”トーマス・エジソンの博物館「トーマス・エジソン国立歴史公園」があるが、中松氏は「現時点で、私の発明は3829件。まだまだ増える。世界一発明が詰まった博物館、世界発明センターという位置付けになります」と豪語。既に各国から視察の話が舞い込んでいると明かした。

ドクター中松発明博物館が入るドクター中松ハウスは、2005年(平17)に創設。その建物自体が、新しい種類のコンクリートから有事の際には核シェルターになる構造など、建物には45の発明が詰め込まれている。創設から18年の時を経て、着実に発明品をまとめ、待望の開館にこぎ着けた。

博物館の入り口近くには、教師だった母芳野さんの教育を受け、わずか5歳で生みだした最初の発明「自動重心安定装置」が、発明から89年の時を経ても原形をとどめたまま陳列。母がかじかんだ手で一升瓶からしょうゆ差しに苦労して、しょうゆを移す姿に触発されて14歳で発明した「■(将の旧字体の下に酉)油チュルチュル」についても、マネキンを絡めて設置し、当時を再現。同発明は、最初の特許を取り、後に灯油ポンプとして一般家庭に欠かせない発明となった。

中松氏は、海軍機関学校を経て東大工学部に進み、50年には大学2年でシート状の記録媒体「フロッピーディスク」と、記録再生装置を発明。後に一般にも普及していくパソコンにおいて、画期的な発明となり、米IBM社がハードディスク含め、個人としては異例の16の特許をライセンスした。53年には三井物産に入社し、デジタル時計や表示板、さらには現在のパチンコの元になる、自動パチンコ装置など次々と発明を世に送り出すも、57年に同社を退社。独立し、日本のベンチャービジネスの先駆けとなるドクター中松創研を創設。それらの発明の現物が「ドクター中松発明博物館」には陳列されている。中松氏は「全て私が発明し、作った本物」と胸を張った。

バブル崩壊後の日本は経済、技術力ともに低下し、賃金も上がらず、国際競争力も失ってきたまま、コロナ禍の現在に至ったという現実を昨今「失われた30年」と評し、批判する声も少なくない。その中、自らの発明人生をまとめた博物館を作った中松氏は「私は失われてはいない。まだまだ発明する」と意気盛んだ。秘密としつつも、2つの新規事業、発明を進めていると示唆した。

入場料は1人1000円で、既にサウジアラビア、香港、台湾、エストニアから視察団が訪問することが決まっているという。新型コロナウイルスの感染拡大防止の水際対策が緩和され、海外からの観光客が多数、来日している。中松氏は「世界の発明センターである『ドクター中松発明博物館』を観光スポットにすることで、日本経済が困っている中、国にお金を落とす」と観光をも視野に入れ「ドクター中松発明博物館」を維持、運営していく考えを強調した。【村上幸将】