東京・中野のランドマークである中野サンプラザが7月2日に、再開発のため閉館する。1973年(昭48)6月1日に「全国勤労青少年会館」として開館。50周年を迎えたばかりの閉館となる。同プラザ内のホールは音楽の殿堂で、ファンのみならず、ジャズ、フォーク、ロック、演歌、アイドルなどジャンルを問わず、多くのミュージシャンが閉館を惜しんでいる。サンプラザホールの歩みを振り返ってみた。【笹森文彦】

中野サンプラザは「SUN=太陽」「PLAZA=広場」からきている。前身の正式名称は「全国勤労青少年会館」。公募で、太陽のようにエネルギーに満ちあふれた若者が集う広場に、という願いから「中野サンプラザ」が愛称になった。開館直後から、音楽を愛する若者の集う場所にもなっていく。

その皮切りが開館した73年6月1日にホールで行われた「開館記念式典」。午後3時から開演し、71年に「また逢う日まで」で日本レコード大賞を受賞した尾崎紀世彦さんと、童謡歌手の大庭照子さんが歌唱した。中野サンプラザでの最初の歌声となった。

“音楽の殿堂”となっていくのに、大きな役割を果たしたのが「サンプラザ・オン・ステージ」の開催。勤労青少年に良い音楽を低料金で提供する自主公演だった。株式会社中野サンプラザの総務部ホール・ロビーサービス課長の佐藤千春氏は「当時、サンプラザメイトという制度があり、会員料金で多彩なプログラムが楽しめました」。

第1回は開館1周年記念の74年6月1日で、海援隊、NSPらが出演。以後、中村雅俊、高橋真梨子、松任谷由実、由紀さおりと安田祥子姉妹ら多くの人気アーティストが登場した。

「サンプラザ・オン・ステージ」として、ミュージカルも定期的に上演された。「ハムレット」(79年、主演桑名正博さん)「原宿物語」(85年、野村義男)「イダマンテ」(88、89年、近藤真彦)など。

この自主公演は、同会館が民営化となる直前の03年12月まで172回も開催された。こうして中野サンプラザは、音楽を愛する老若男女が集う広場となっていったのである。

ジャンルを問わず数多くの国内外のミュージシャンが、ステージに立った。美空ひばりさんは76年に芸能生活30周年記念リサイタルを行った。今年3月28日に死去した坂本龍一さんもコンサートを行った。米ジャズ歌手のサラ・ヴォーンさんは開館直後の73年9月に公演を行い、ライブ録音した。そのアルバム「Live in Japan」は傑作と言われた。

モーニング娘。やアンジュルムらが所属する「ハロー!プロジェクト」や、声優のライブが定期的に開催され、“アイドルの聖地”“サブカルチャーの聖地”と言われた。郷ひろみ、山下達郎、加山雄三、五木ひろしらが数多くのコンサートを行っている。

アーティストに支持される理由の1つに、音響の良さがあった。日本音響家協会が選ぶ「優良ホール100選」に選ばれている。「ほかにも、機材の搬入搬出がやりやすいと言われます。あとはアクセスの良さですね」と佐藤氏。

胸ときめかせてホールに向かうと、まずは真っ赤な大階段が迎える。1階から4階まで同じく赤を基調とした2222席の空間は威圧的ではなく、アーティストと観客の距離を縮め、親近感を生んだ。ロビーのソファもレトロで赤く、昭和からの歴史を感じる。

残念ながら、中野サンプラザのある地区の再開発で、7月2日に閉館。地区は「NAKANOサンプラザシティ」として28年度内の新生を目指す。中野サンプラザホールは地区内に最大7000人規模の「NAKANOサンプラザ」として生まれ変わる予定だ。佐藤氏は「ビルもホールも地域密着の施設でしたので、そういう方々の思い出がなくなることは寂しい。中野サンプラザのDNAを継承して、最新の施設で新しいエンターテインメントを提供してほしい」と願った。

◆中野サンプラザ 旧労働省(現厚生労働省)が勤労者向けの福祉施設として建設し、73年6月1日に全国勤労青少年会館として開業した。中野サンプラザは公募で選ばれた愛称。ふるさとの新聞が読めるコーナー、職業や結婚の相談所、夏祭りでは故郷に3分間かけられる無料電話が設けられた。上層階のホテルは上京した家族らが格安で泊まれた。04年に民営化され、愛称が正式名称となる。以後、ホテル、会議室、ホールなどの複合施設となった。サンドイッチと形容される独特の三角形のビルで、地上21階、地下2階。

■五木ひろし、南こうせつら「さよなら音楽祭」

「さよなら中野サンプラザ音楽祭」が5月3日から閉館日の7月2日まで開催される。ジャンルを問わず数多くのアーティストが日替わりで出演する。ソロ公演だけでなく、稲垣潤一、庄野真代らの「メモリーラブソング~永遠の歌謡・シティポップスをあなたに~」(5月18日)。「五木ひろしが選び歌う昭和歌謡黄金時代」(6月15日)。「踊れる!アニソンDJイベント!アニソンディスコ~とびっきりの中野サブカル超決戦~」(同22日)。南こうせつ、イルカらの「令和歌の祭典2023~100年歌われるニューミュージック~」(同30日)など企画イベントも多数ある。7月2日のラスト公演は、同ホールを愛した山下達郎が行う。実行委員会は「ただのフィナーレでは終わらせない。未来のファンファーレを、みんなで奏でよう」とコメントしている。音楽祭の詳細は公式ホームページで確認できる。

■最初の単独コンサートはビリー・バンバン

中野サンプラザホールで最初に単独でコンサートを行ったのは、兄弟デュオのビリーバンバンだった。73年6月5日(火)で、開館4日後だった。前年の72年に「さよならをするために」がヒットし、年末の第23回NHK紅白歌合戦に初出場した。人気絶頂の中でのリサイタルだった。

弟の菅原進(75)は「覚えています。ビルを見た時は目立つなって思いました。ホールは大きいなって感じた。響きが良くて、とても歌いやすかった」。

当時のチケット料金はS席1300円、A席は1000円だった。「実は76年6月の解散コンサートも中野サンプラザだったんです。兄弟、仲悪くてね(笑い)。いろんな節目の思い出のホールです」。

84年に再結成した。14年に兄の菅原孝(78)が脳出血で倒れ、今は1人で頑張っている。YouTube「ビリーバンバン菅原進チャンネル」は人気で、「うっせぇわ」(Ado)のカバーは110万回再生を超えている。「最初に歌えたことは本当に光栄です。新しくなるとはいえ、閉館は残念です」と話した。

■サンプラザホール アレコレ 

▼最初の連続公演 沢田研二が開館した73年10月8日から11日まで4日連続公演を行った。

▼公開番組のメッカ 東京12チャンネル(現テレビ東京)の「歌え!ヤンヤン!」や、日本テレビ系「マチャアキのシャカリキ大放送」や同「カックラキン大放送!!」の公開収録が行われた。

▼中野区成人のつどい 開館翌年の74年から、コロナ禍などで時期をずらしたことはあったが、毎年開催している。今年から「中野区二十歳のつどい」。

▼にっぽんの歌 テレビ東京系の年末恒例の音楽番組「年忘れにっぽんの歌」や「夏祭りにっぽんの歌」の会場となっている。

◆笹森文彦(ささもり・ふみひこ)札幌市生まれ。83年入社。主に文化社会部で音楽担当。取材で、中野サンプラザには100回以上は行っている。開場になるとホール入り口前の大階段に長い行列ができる。その列を縫うようにして、取材受付に行くのだが、「何よ。あんた。並んでるのよ」という視線を感じて申し訳なく思う。今もあの階段では気を使う。