安倍晋三元首相が昨年7月8日、奈良市内で参院選の遊説中に銃撃され、命を落としてから8日、1年となった。8日には、東京都港区の増上寺で一周忌法要が営まれる。

自民党幹事長や第2次安倍政権の閣僚として安倍氏を支え、党総裁選を2度戦ったライバルでもあった石破茂元幹事長(66)が、日刊スポーツのインタビューに応じ、安倍氏との思い出や、安倍氏亡き後の自民党の課題などについて、思いを語った。

  ◇  ◇  ◇

昨年7月8日、安倍氏の訃報は、鳥取県倉吉市での参院選遊説中に耳にした。「私は安倍さんの天敵などともいわれましたが、いっしょに仕事をした方。自分なりにかなり動揺し、混乱もしていた」という。7月12日の増上寺での葬儀に参列し「この先、日本がどう変わるのか、よく分かりませんでした」と、当時の思いを振り返る。

訃報直後、毎週金曜日に更新している自身のブログで安倍氏を追悼した際「『情』の人であり、『結果重視』の人であったと思います」と記した。

石破氏 好き嫌いがはっきりしているという意味でも『情の人』でした。周囲の人々を大切にされる一方、敵を明示することでも存在感を高めていた。情というのか、好き嫌いをうまく政治に取り入れた方ではないでしょうか。政治家として、そういうスタイルだったと思います。

また、「結果がすべてという傾向がありました。途中の議論はスキップしてでも結果が大事という方で、選挙に勝てばそれが正しい、政治の源泉は選挙だという考えも強かった。民主主義は時間もコストもかかりますし、ベストな選択はなかなかあり得ませんから、私は議論の過程、プロセスも大事だと思っているのですが」と話した。

安倍氏とは2012年と2018年、2度の総裁選を戦った。12年は石破氏が党員票を多く獲得しながら国会議員の決選投票で及ばずに敗れたが、当時野党だった自民党の安倍総裁のもとで幹事長に就任。「(要請を)そのままお受けした」という。「(政治家として)目指しているものがあまり変わらず、理想をともにしている」ことを確信していたからだった。

石破氏 途中までは、目指す国家像というものも、いっしょだったと思います。安倍総理は総裁選の演説で、集団的自衛権の全面容認(が必要)ということを訴えておられたし、私は今でもそう思っている。政権を奪還した後、だんだん安倍総理は、集団的自衛権は限定的にしか行使できないという意見に、変わっていかれました。どんなに好きな人でも、目指す国の方向が違えばいっしょにはやれません。そんなところから、少しずつ距離ができたということではないでしょうか。

安倍氏がこだわった安保法制をめぐっては、2人の進む道の違いを決定づけた出来事があった。2014年9月の内閣改造前に、安倍氏に官邸に呼ばれた。石破氏は当時、自民党幹事長。1対1で向き合うと、集団的自衛権の限定的行使を可能にする平和安全法制を実現したいとして、防衛相と安保担当相を打診された。石破氏は「1つだけお願いがあります」と切り出したと振り返る。

石破氏 集団的自衛権は限定的に認める、これ以上認めるには憲法改正が必要、と総理はおっしゃったが、私はそうは思わない。制限は国家安全保障基本法でやります、というのは、野党時代の自民党憲法改正草案で決めたことでした。ですから「これ以上認めようと思えば憲法改正が必要だと、安倍内閣としては考えている」と言っていただきたいと、申し上げたんです。それならば国会で答弁する時も、私は『安倍内閣の閣僚である以上、総理と同じように、安倍内閣としては安保法制が集団的自衛権の限界と考えています』と言えます。あなたの考えはどうなのかと問われたら『個人的な考えを述べる場ではありません』と言えますから、と。

安倍氏は「激怒した」という。「あなたが総理になってからやればいいじゃないか」と。

石破氏 憲法に対する考えが違うことが、その時、はっきりと分かりました。あの時、安倍総理との決定的な考え方の違いを自分の中で感じました。

石破氏はこの後幹事長を外れ、安保担当相ではなく、地方創生の特命担当大臣を約2年務めた。安倍氏のもとで大臣を務めたのは、それが最後になった。【中山知子】(2に続く)

【安倍元首相一周忌】石破茂元幹事長「安倍体制は自民党で今も続いている」/インタビュー2>>