近鉄の最終戦に先発し梨田昌孝監督から労をねぎらわれる岩隈久志(2004年9月27日撮影)
近鉄の最終戦に先発し梨田昌孝監督から労をねぎらわれる岩隈久志(2004年9月27日撮影)

元近鉄監督の梨田昌孝氏(67=日刊スポーツ評論家)が19日、巨人岩隈の引退を惜しんだ。岩隈1年目の00年から近鉄ラストイヤーの04年まで5年間、一緒に戦った。思いは特別だった。

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岩隈は近鉄バファローズの最後のエースでした。04年は球団合併の話しが持ち上がって、この先どうなるのか不安をつのらせながらのシーズンでした。チームが激しく揺れるなかでのリーグ最多の15勝(2敗)は、岩隈の芯の強さと意地だったと思います。

近鉄監督初年度に岩隈をドラフト5位で指名したのは、山本泰スカウト(8月11日没)の強い推薦でした。藤井寺球場での合同新人トレーニングで見た印象は、細身だが、腕のしなりが素晴らしかったので、モノになると直感が働いたのも覚えています。

01年、好投の近鉄岩隈の右腕を高々と挙げて勝利を祝う梨田監督
01年、好投の近鉄岩隈の右腕を高々と挙げて勝利を祝う梨田監督

01年はリーグ優勝を果たしたが、12球団ワースト防御率4・98が示すように投手力に難があった。計算のできる投手が不足し、久保2軍投手コーチに「岩隈をはよくれ、はよくれ」と1軍昇格を促したが、まだ体ができていないことを理由に断られ続けた。

でもこちらの3度目の要請で5月下旬に上に上がった岩隈は、緩いカーブを駆使するなど、捕手古久保のリードもあって好投を続けて優勝に貢献した。02年の岡山倉敷での試合で1度だけ監督室で叱りつけたこともあった。球質のいい、打者の手元で伸びるボールに磨きをかけてエースの座をつかんだ。

日本ハム監督だった当時のダルビッシュ対楽天岩隈の対決は見応えがあったし、日本を代表する投手に育った。ご苦労さまと声を掛けたい。ただ近藤、坂口(ヤクルト)とラストスリーだった猛牛戦士がユニホームを脱ぐのは寂しさを感じますね。(日刊スポーツ評論家)

11年、試合前に日本ハム・ダルビッシュ(右)と談笑する楽天岩隈
11年、試合前に日本ハム・ダルビッシュ(右)と談笑する楽天岩隈