「6割は戻ってきたかな」。池袋駅ホームを行き交う人々を見て、長友真輝駅長(52)はつぶやいた。

緊急事態宣言が解除され、19日には県外移動の自粛も全面的に解除。駅には少しずつ活気が戻ってきた。しかし、まだ新型コロナウイルスは収束していない。万全の対策で客を迎え入れる体制を整えているが、何が起こるか予測がつかない。複雑な思いが交差した。

JR池袋駅駅長の長友さん(撮影・保坂淑子)
JR池袋駅駅長の長友さん(撮影・保坂淑子)

ガッチリとした体格、精悍(せいかん)な顔つきが、かつての勝負師をにおわせる。国学院大を卒業後、JR東日本へ就職。野球部に所属し強打の捕手として9年間、活躍した。

社会人野球1年目、その華々しい活躍がJR社員の心を救った。1990年(平2)、第61回都市対抗野球大会第2代表決定戦の準決勝。相手は強豪の熊谷組だった。

同年の1月23日午後3時。熊谷組が新幹線工事中にJR御徒町駅の道路で崩落事故を起こし、山手線が約4時間、停止。駅は大パニックに陥り、職員はその対応に追われた。予選での熊谷組との対戦に、周囲は「因縁の対決」と騒ぎたて、球場には多くの社員が応援に駆け付けた。

「手抜き工事!」とやじも飛ぶ空気の中、1年目の長友氏は、満塁のチャンスで先発の弓長起浩投手(後に阪神入団)の初球スライダーを高々と打ち上げ満塁本塁打に。次の打席では、2番手投手から3ランを放ち、7打点の大活躍。バットで制した。

「試合後は大変な騒ぎでした。当時の熊谷組は強豪でウチとは力の差がありましたから。10年分働いたな、なんて言われて。人生が変わりましたね」。その後、JR東日本は第2代表で7年ぶりの都市対抗野球大会出場を手にした。「勝てば社員が喜んでくれるという空気を、肌で感じました。今振り返れば、まだ右も左も分からなかったからできたと思うんです。2年目からは、重圧がすごかった。負けたら会社に行けないかも…考えるとバットが出てきませんでしたから」。

9年の現役生活を終え98年に引退。社業に専念し、今年2月からは池袋駅の駅長を務めている。

山手線では新宿駅に次ぐ巨大ターミナル駅。車両基地もあり、駅全体から社員180人の管理まで。朝9時の朝礼に始まり、時間があれば詰め所を回り、常に状況を把握している。「仕事でも、野球に置き換えて考えることが多いんですよ」。捕手ならではの分析能力がさえ、混乱を回避する。時には気合で突き進み「現役時代のプレースタイルと変わらないな」なんて言われることも。「野球も4番バッターだけじゃダメ。個人が成長し力を合わせ強くなる。仕事も同じ」。若い社員の声に耳を傾け、人材育成にも力を入れる。現在は池袋駅の社員全員にタブレットを持たせ、活用方法を模索中だ。

JR東日本は今年、創部100周年を迎える。社員の中には野球部OBも増えた。長友氏は、野球を引退したばかりの社員にいつもこう教える。「野球と一緒だよ。まずは基本をしっかり覚えろ。それを反復するしかない」。野球で培った力で、これからも池袋駅を守り続ける。(この項おわり)

【保坂淑子】