西武ファンの方なら覚えているだろうか。13年7月26日からのオリックス3連戦。選手たちはグレーのユニホームでプレーした。袖口と首回りからベルトのバックルに向け赤いライン。左胸にはライオンの横顔が青で描かれ、「SENATORS TOKIO」の文字。古風な趣があった。

13年7月、「ライオンズ・クラシック2013」で、胸の東京セネタースのロゴを指さす西武牧田(右)と鬼崎
13年7月、「ライオンズ・クラシック2013」で、胸の東京セネタースのロゴを指さす西武牧田(右)と鬼崎

球団の歴史を振り返る「ライオンズ・クラシック2013」で採用された東京セネタースの復刻ユニホームだった。セネタースは、36年(昭11)創設の日本職業野球連盟(現在のNPB)に当初から加わった7球団の1つ。東京における巨人軍のライバルだった。ただ、西鉄、太平洋クラブ、クラウンライターのような前身球団ではない。なぜ、スポットを当てたのか-。

セネタースの出資者は有馬頼寧(よりやす)伯爵。競馬の有馬記念で知られる人物で、当時の貴族議員だった。そこから、米国の上院議員を意味するセネタースと命名。そして、もう1つの出資者が旧西武鉄道だった。

旧西武鉄道は川越鉄道などを起源に1922年(大11)設立。現在の新宿線、国分寺線を運行した。戦後すぐの45年(昭20)9月、現在の池袋線を運行していた武蔵野鉄道などと合併し、西武農業鉄道となる。翌年、西武鉄道と改称、今に至る。

新旧の違いこそあれ、西武鉄道が最初に関わったプロ野球団が、実はライオンズではなかったことが興味深い。セネタースの初代監督は、横沢三郎(後のパ・リーグ審判部長)が務めた。優勝こそなかったが、名手の苅田久徳や野口明、二郎兄弟が活躍した。

次第に戦争の波に巻き込まれていく。球団名を日本語とするため、40年(昭15)に「翼軍」と改称。有馬伯爵が大政翼賛会に関わったことによる。41年(昭16)には名古屋金鯱軍と合併し「大洋軍」に。さらに、43年(昭18)には西日本鉄道が出資し「西鉄軍」となった。福岡の西鉄である。

西鉄軍は後楽園、甲子園などを用い、九州では1試合も行わなかった。戦況悪化もあり1年で解散。西鉄ライオンズとつながりはない。ただ、戦前・戦中は西武が西鉄となり、戦後は逆に西鉄が西武となった。因縁めいている。

総合体育施設の上井草スポーツセンター。屋外グラウンドでは、サッカー、野球の両方が楽しめる(撮影・古川真弥)
総合体育施設の上井草スポーツセンター。屋外グラウンドでは、サッカー、野球の両方が楽しめる(撮影・古川真弥)

セネタースの本拠地は沿線の上井草球場だった。旧西武鉄道が36年(昭11)開設。両翼100・6メートル、中堅118・9メートル、2万9500人収容と立派なサイズ。入場料は高田馬場からの電車賃を含め50銭だった。

戦後、神宮球場が米軍に接収された時期には東京6大学も使用した。59年(昭34)に東京都が買収し、都民の体育施設に整備。その後、上井草給水所配水池となる。現在は杉並区に移管され、98年に総合体育施設「上井草スポーツセンター」に生まれ変わった。

上井草駅から徒歩4分。ぐるり1周しても、上井草球場の面影は見あたらなかった。ただ、近くを西武電車が走り、元気にサッカーをしている若者がいた。西武とスポーツの関わりは、昭和初期から続いている。(つづく)【古川真弥】