ガーナ代表選手たちにバント指導を行う友成晋也さん(提供:JーABS)
ガーナ代表選手たちにバント指導を行う友成晋也さん(提供:JーABS)

ナイジェリア代表の友成晋也監督(62)は30年近くアフリカの野球にかかわってきた。その出発点は、国際協力機構(JICA)職員として最初に赴任したガーナにある。選手たちと衝突しながらも理解し合い、代表チームを短期間でアフリカ4強に導いた。そして現地の少年の言葉に野球の持つ力を再認識し、アフリカに野球を広める決意を固めた。大きな可能性を秘めた大陸で挑戦を続ける野球人の話、2回目です。

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友成さんは遠く離れたアフリカで野球をやれることがうれしくてしょうがなかった。32歳、96年夏。赴任直後のガーナで、自称「ナショナルチーム」とJICA職員らで野球の試合を行った。慶応、慶大で硬式野球部に所属していた友成さんは「4番遊撃」でフル出場。試合は4-10で負けるも、全打点を挙げ、三遊間のゴロをダイビングキャッチでさばいたり、技術の高さを披露した。

「相手の投手はせいぜい110キロくらい。試合が終わったあと、監督をやってくれませんかと言われて、驚きました」

大学卒業後も草野球を続けていた友成さんは、ガーナで子供たちとキャッチボールくらいはやろうと、グラブなど道具を段ボール2箱分、持ち込んでいた。もともと設けられていた代表チームとの試合に早速誘われ、それがきっかけで代表監督になった。

当時のガーナの野球人口はたったの30人。キャッチボールをやらせると、てんでバラバラに散らばり、自分たちの好きな場所で投げ始め、ボールや選手が交錯して危なっかしい。2列に並ばせ、隣との間隔を空けて投げ合う、というところから始めた。

しかし、20代中心の選手たちは野球が大好きで、毎週末、車やバスを乗り継いで練習に集まった。友成さんの指導で選手のレベルは確実に向上し、1年半後にはフジテレビの番組「奇跡体験!アンビリバボー」の密着取材も受けるようになった。そこで、騒動は起きた。

この頃、選手たちからは「バスを買って、われわれを迎えに来てほしい」「無理ならばせめてバス代を出してほしい」という要望が出されていた。友成さんは選手たちをこう諭した。

「お金をもらうのが当たり前になったら甘えが生まれてしまうし、私がいなくなったら誰が払う? 練習に来なくなる選手が出てしまうかもしれない」

しかし選手たちは反発。規律正しさを強く求める日本式の練習への不満もあわさり、「トモナリは厳しすぎる」という声が日増しに膨らんでいった。そういう声を耳にした友成さんは監督を退き、裏方に回ることを決意。当時27歳だったアルバート・ケイ・フリンポン主将を呼び、退任の意思を告げた。

ガーナ代表主将だったアルバート・ケイ・フリンポン氏と2022年に撮った記念写真(提供:JーABS)
ガーナ代表主将だったアルバート・ケイ・フリンポン氏と2022年に撮った記念写真(提供:JーABS)

愛称「ケイケイ」の主将は友成さんにこう言った。

「辞めてほしいとは誰も思っていない。ただ、1つだけ言わせてもらえるならば、ガーナにはガーナのリーダーシップがある。リーダーは父親たれ、です」

友成さんは選手全員と1時間ずつ面談。それだけではなく、選手の家庭や職場も訪問した。父親から野球を反対されている選手に対しては、父親の大好きな炭酸飲料をいっぱい抱えて家に行き、父親を説得した。事業好調で社長から土曜日も働けと言われた工場勤めの選手については、彼が代表チームの主力選手であることを社長に伝え、喜んで協力してもらうことに成功した。

「選手たちはみんな喜んでくれました。チームとしての結束力も高まったと思います」。99年9月、南アフリカ共和国のヨハネズブルクで行われたシドニー五輪予選では、格上のジンバブエを破るなどして、4強に残った。

ガーナに赴任して3年ほど経ったある日、友成さんは現地で行われた少年野球大会で、12歳くらいの子供に声をかけた。

「野球のどんなところが好きなの?」

子供はこう答えた。

「バッターボックスに立つのが楽しい。あそこに立つと、みんなが自分を応援してくれる。ヒットを打ったらヒーローになれるし、平等に順番が回ってくるから」

友成さんはハッとした。赴任地のガーナは貧富の差が大きく、教育から医療、仕事まで、平等にチャンスを与えられる環境ではなかった。発展途上国にありがちな汚職などの不正も多く、健全な社会とはお世辞にも言えなかった。

「こういう厳しい環境に生きる子供たちにこそ、野球が必要ではないかと思いました。その後赴任したタンザニアでは野球を始めた子供たちが成長し、学業成績も上がりました。紛争地南スーダンでは、子供たちに教えた野球の教育的効果が認められ、対立関係にあった民族が手を組んで野球連盟が立ち上がりました。アフリカで野球を教えたことで、野球には民主主義を広め、人を育て、平和をつくる力があることに気づいたのです」

これらの経験をもとに、現地の人々、特に教育関係者に「野球は規律・尊重・正義を学べるスポーツ」と説いて、少しずつアフリカに野球を広げていった。

「サッカーと違って、野球は考える時間が多い。未来を予測し、それに備えて対策を考え、チームワークで対処する。学びの宝庫です」

JICA在職中にアフリカ野球・ソフト振興機構(J-ABS)を立ち上げた友成さんは、20年に早期退職し、同事業に専念する。そして、アフリカの54の国々と1つの地域を念頭に、「アフリカ55甲子園プロジェクト」を掲げた。同構想の象徴として、ある人物に協力を依頼するため、21年8月、友成さんはニューヨークに飛んだ。【沢田啓太郎】(つづく)

【沢田啓太郎】(つづく)

◆友成晋也(ともなり・しんや)1964年(昭39)7月16日生まれ、東京都出身。慶応から慶大に進み、硬式野球部に所属。内野手。リクルートコスモス(現コスモスイニシア)、JICAを経て、一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構代表理事。ガーナ、タンザニア代表監督、南スーダンで青少年野球団監督を歴任。アフリカ訪問国は駐在も含めて19カ国にのぼる。

ガーナ代表監督時代の指導風景(提供:JーABS)
ガーナ代表監督時代の指導風景(提供:JーABS)