さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第11弾は香川伸行さんが登場します。

 香川さんは強烈なインパクトを残した選手でした。浪商(大阪、現大体大浪商)の主砲として、1979年(昭54)の夏の甲子園では3試合連続本塁打という離れ業をやってのけました。

 捕手で太めの体形。そして豪打が、水島新司さんの野球漫画「ドカベン」の主人公、山田太郎捕手を思わせ、そのニックネームがつきました。

 愛されつつ、2014年(平26)9月26日、心筋梗塞のため、52歳で亡くなった香川さんの高校時代を、12回の連載でお届けします。7月24日から8月4日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 香川さんの取材後記といわれても、すでに本人は鬼籍に入っている。

 こういうときの取材はつらい。片っ端から関係者から聞き込みを続けるしかないからだ。

 亡くなる1年前の13年12月、本人にインタビューをしていたのは、せめてもの救いだった。

 今回は弘美夫人、浪商時代の監督だった広瀬吉治さん、バッテリーを組んだ牛島和彦さんらチームメート、対戦した元球児ら、数多くの方から話しを聞くことができた。

 そこにたどり着くまでに、その間に入っていただいた紹介者がいるわけで、相当の関係者と連絡を取り合ったように思う。

 なにも自分が労力を費やしたことを威張っているわけではない。

 最近は情報機器が精巧にで速報が重宝とされ、現場に足を運ぶといった取材がおろそかになりがちになっている。

 ここでは取材対象者に正面から向き合い、表情をみながら、本音に迫る。そんな記者の原点に改めて立ち返ることができた。

 さて、生前の香川さんの取材で印象深いのは、超高校級スラッガーとして甲子園を沸かせた「その後」だった。

 南海ホークスでプレーした当時、わたしは駆け出しの記者で、常に記事になるのは「体重」の話題だった。ついに本拠地・大阪球場近くのI病院に「減量入院」してしまう始末だった。

 番記者は早朝から病院に詰めて、その日の食事メニュー、プールでウォーキングした時間、回数、何キロやせたか? といった取材をする毎日だった。

 香川さんはその病院から球場に通った。試合が終わると病院に帰るという日々…、のはずだった。

 しかし、実際は、試合が終わると、決まって記者席の常設電話に「ちょっと、いこか」と掛けてくる。

 それからミナミの繁華街を歩きながら、なじみの店をハシゴした。そして、わたしの目の前で、スナック菓子を食べる、食べる、食べ尽くすではないか…。

 記者は深夜に病院に送り届けて、翌朝はプールでウォーキングする香川さんを取材していた。

 今だからいうが、減量なんてあり得なかった。

 「でも10年やって、1度も体重100キロ切らんかったプロ野球選手って、オレだけちゃうか。体重? 130キロ。MAXでやで。おれの口から体重のこというの、これが最初で最後やからな」

 そう笑って打ち明けてくれたのに…。おおらかな時代にあった強烈な個性を感じずにはいられない。【寺尾博和】