1949年(昭24)8月13日。甲子園大会の開会式は華やかなムードにつつまれた。この年から、プラカード嬢による先導が始まった。

 初出場の湘南は、1勝を目標に参加していた。当時は圧倒的な西高東低。創部4年目で初出場の神奈川代表は、周囲からも大きな期待はされていなかった。

 開会式は「髪形論争」の真っただ中だった。一塁手の岡本英二と、二塁手の古家了、マネジャーの高橋熙(ひろし)は長髪だった。

 監督で佐々木の父でもある久男が、彼らに散髪するよう指示をした。「お前らだけ髪を伸ばしていては統一が取れない。切ってしまえ」と。だが、彼らは従わなかった。「野球の技術と髪の長さは関係ないから切りません」。真っ向から対立したという。

 これをとりなしたのが部長の市瀬正毅だった。「もし他のチームで伸ばしている者がいたら切らなくてもいい」と提案し、両者を納得させた。開会式で周囲を見ると慶応(東京)の選手が長髪だった。これで岡本らは髪を切らずに済んだ。どうやら市瀬は、慶応に長髪選手がいると知っていたようだ。

 佐々木 僕はずっと坊主頭(丸刈り)。しゃれっ気もないし、何とも思わなかったよ。

 いかにリラックスして開会式に臨んでいたか垣間見える。また、湘南の自由な雰囲気を表すエピソードでもある。

 佐々木は、監督で父の久男がのちに「4校どうしてもかなわない相手がいた」と言っていた記憶が残っている。前年の大会で全5試合で完封したエース福島一雄を擁し、3連覇がかかる小倉北(福岡=前年まで小倉)。センバツで準優勝の芦屋(兵庫)、3年ぶり7度目出場の瑞陵(愛知)。

 佐々木 もう1校はどこだっただろう? でも、これが途中で全部負けちゃって、うまくするっといった。

 3校とも別ブロックに入り、湘南は2回戦からの登場となった。組み合わせからツキがあった。

 初戦の相手は南四国代表の城東(現徳島商)だった。佐々木は初めての甲子園の様子を覚えている。

 佐々木 かんかん照りでね。夏だからスタンドは(観客の服が)真っ白でしょ。真っ白のスタンドから真っ白のボールが飛んでくる。これが見にくくてね。

 内野をおおう鉄傘が、戦争のため国へ供出されていた。銀傘の完成は、2年後の51年になる。左翼手の佐々木は、飛球の守備で苦労した。ちなみに、ラッキーゾーンの登場は、この年からだった。

 城東戦は9-3で大勝した。

 佐々木 私は内野安打1本しか打てなかったけど、大勝でした。働いた選手が何人かいた。もういつ負けてもいいやとなった。

 期待されていなかった初出場チーム。選手も関係者にとっても大満足の結果だった。監督の父久男も、佐々木ら選手を集めてこう言ったという。

 「1つ勝ったから、もう、いつ負けてもいい」

 あっさりと目標をクリアした。しかし、そこから快進撃が始まる。無欲の快進撃だった。(つづく=敬称略)

【斎藤直樹】

(2017年5月28日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)