3年夏に流した悔し涙が西本をどう変えたのか。

西本は2年生の1月から練習後、下宿まで10キロのランニングを自らに課した。初めての努力だった。

西本 努力というのは、やったからといってすぐに結果が出るものじゃない。夏までの6カ月で出るものじゃなかった。それを肌で感じました。悔し涙を考えた時に、今からやらないと同じ失敗を繰り返すと思い猛練習を始めました。

西本は卒業後も野球を続けると決めていた。野球部を引退すると秋からは実家のある興居島(ごごしま)から通学した。鉛入りの重い靴を履いてフェリーに乗るとそこからすべてつま先立ちで学校まで通った。

放課後になると同じ鉛入りの靴で松山城までランニング。上まで行くと城山までおりて坂道ダッシュを繰り返した。そして学校に戻ると再び同じルートで島へ帰宅。砂浜を走り自宅に戻ると母マチエに足を押さえてもらい腹筋、背筋を100回。さらに片足屈伸、指立て伏せも行った。

西本 練習したことを毎日、日記に書きました。これだけやっているんだから絶対に良くなると、自分に言い聞かせていました。おかげでプロの練習にもついていけた。生涯で一番練習したのがこの時期。もし甲子園に行っていたらこの練習はしていないですね。

プロ入り後の西本の活躍は言うまでもない。巨人のエースとして活躍。沢村賞に輝き中日移籍後も20勝を挙げた。日本シリーズでもMVPに輝き、29回連続無失点はいまだ破られていないシリーズ記録である。

卒業から43年。西本は高校時代をふり返った。

西本 2回も脱走してどうしようもない高校生活を送っていたけど、プロでもどうにかやれた。松商野球部で3年間やったからプロの厳しさにも耐えられた。正座させられたり殴られたり、理不尽なことも多かったけど、その時代、時代の中で意味があったと思う。自分は松商野球部に人間を作られたと思っています。いろんな見方はあるでしょうけど、失うものより得るものの方が多かった。本当に感謝しているし誇りに思っています。

入学時100人近くいた同級生部員も最後まで残ったのは西本ら14人。同級生の乗松優二は「1度も甲子園に出られなかった代ですが、プロで頑張ってくれた聖(西本)と、甲子園優勝監督になった沢田(勝彦=96年夏奇跡のバックホームで全国制覇)がワシらの誇りです」と胸を張った。

松山商は春夏合わせ全国優勝7回を誇る全国屈指の名門。ただ01年夏を最後にもう16年も甲子園から遠ざかっている。

西本 良い意味の伝統を生かしながら強くなって欲しいなと思います。

母校の復活を願う西本は今冬「学生野球資格回復研修会」を受講しようと思っている。「自分は甲子園に出られなかったから」と故郷から距離を置いてはいるが、いつの日か、後輩たちを指導する日が訪れるかもしれない。(敬称略=終わり)【福田豊】

(2017年10月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)