現在、マネジメント会社を経営する加藤正樹(53)にとっての「10・19」はある意味、野球人生を左右する重い1日となった。

◆第1試合 8回に代打出場して四球出塁。村上の適時打で同点のホームを踏んだ加藤は9回2死二塁、勝ち越し点を奪えなければ、優勝の望みは消えるという究極の場面で打席が回ってきた。

加藤 早く代打を告げてくれ、と思ってました。でも仰木さんはなかなか代打を告げてくれない。ベンチの階段を上ったり、降りたりしてるんです。

ルーキーイヤーだった。PL学園で夏の甲子園を制覇。早大では日本代表として活躍してのプロ入りだったが、優勝を左右する打席に向かう勇気を持てなかったという。

加藤 正直、打ちたくなかったです。最後になるかもしれないバッターがぼくでいいのか。絵にならんな、とか。嫌やな、とか。ジーッとベンチを見てました。そしたらようやく梨田さんが代打として告げられた。ホッとしました。

加藤の代打で同点打を放った梨田とは近鉄監督時代に球団広報として支え、04年の球団消滅と同時にともにマネジメント会社を立ち上げるという不思議な縁で結ばれていたのだが、それは後の話だ。

加藤 野球人生で初めてでした。打席に立ちたくないと思ったことは。でもよくよく考えてみれば野球人としては思ってはいけないことなんです。ここで代えてくれということは。だからぼくにとっては自信をなくした日。プロではやっていけないんじゃないか、と迷いが出始めた日になったと思います。

出場29試合目だったルーキーにとって確かに過酷な局面だった。第1試合は9回打ち切り。引き分けでは優勝はない。しかもその直前、鈴木が放った右前打で本塁を狙った代走佐藤が三本間で憤死。川崎球場には大歓声の直後に絶叫と悲鳴が交錯。そして重い沈黙が覆い始めていた。その究極の舞台に直面したとき、心の底に芽生えた思いは「自信」というプロ野球人としての土台ともいうべき根幹を揺さぶるものだった。

加藤 結局、その後も選手としてやっていけるという自信は最後まで持てませんでしたね。

95年シーズン限りで現役引退。球団広報としてチームを支える側に回った。01年リーグ優勝。球団フロントとして順調にキャリアを重ねていた04年にまさかの球団合併で近鉄は消滅した。このとき、梨田の誘いで立ち上げたのが今のマネジメント会社だ。

プレーヤーとして自信を失った「10・19」。加藤の持つ優しさや気配りは確かにプロ野球選手としては適性を欠いていたのかもしれない。だが、球団のフロントマンとして、またその後のマネジメント業を継続する上では必要不可欠な資質だった。「今、こうしてやらせてもらっているのもあの日があったからかもしれませんね」。加藤は柔らかな笑みでこう結んだ。(敬称略)

◆加藤正樹(かとう・まさき)1965年生まれ。大阪府出身。PL学園、早大を経てドラフト外で近鉄入団。96年から球団広報。現在はトゥルーマサ代表取締役。