かつてプロの世界で活躍した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」に昨年登場した元中日、ロッテ投手の小島弘務氏(52)に現在の状況を聞きました。追手門学院大学硬式野球部で監督を務める同氏は新型コロナウイルスによる影響とどう向き合っているのか…。「ザ・インタビュー特別編」としてお届けします。【取材・構成=安藤宏樹】

波乱に富んだ野球人生を歩んできた小島氏にとっても新型コロナはかつてない試練となって立ちはだかってきた。阪神大学野球リーグに所属する追手門学院大学の監督として、昨年秋のリーグ戦で1部昇格を決めた。監督就任直後に昇格して以来のトップリーグに向け、準備を進めていた矢先に未知のウイルスは世界を駆け巡った。

「3月初旬から大学の方針でチーム活動は停止しました。学生を守ることが最優先という判断です。グラウンドの使用もできなくなりましたので部員は自主練習となり、その状況は7月下旬まで続きました」。

7月末から第1段階ということで週3日各日1時間という限定的な練習を再開。9月21日に開幕予定の秋季リーグ戦に備えて徐々に段階を踏んできたが、さまざまな制限から練習不足は否めず、厳しい日々は今もなお続く。

春のリーグ戦は中止となり、活動が完全停止となった期間はコーチングに関するリポート作成やグラウンド周辺の整備を行う一方、大学卒業後もプレー継続を希望する4年生のサポートに時間を費やした。だが、ここでもウイルスが立ちはだかる。

「野球を続けたいという学生についてはできる限りサポートしてきましたし、それは今年も同じです。ただ、硬式、軟式問わず野球部のある企業さんもクラブチームも枠が厳しくなっています。おかげさまで何人かはメドがつきましたが、まだ決まらない学生もいます」。

社会に出てプレーを希望する学生にとっては一般学生と同じ就職活動。コロナ禍は新規採用にも大きな影響を与えている。多くの学生同様、厳しい現実の一端を明かした。

自身は大学を中退し社会人入りする際、社会人からプロ入りする際と2度の浪人生活を経験した。野球協約違反を問われ、とりわけ西武への入団が取り消された90年には多くの関係者のサポートを受けた。

中でも広島、西武などで監督を務め、ダイエー球団社長就任直後の99年4月に急逝した故根本陸夫氏の自宅に下宿、中日にドラフト1位で入団するまで一個人として面倒をみてもらった半年間は貴重な体験だった。

現役引退後も飲食店経営や児童福祉事業所で働きながら少年野球チームを運営するなどして野球とのかかわりは持ち続けた。その後、高校でコーチを経て15年から大学監督就任。山あり谷ありの野球人生を歩んできた小島氏だが、いまのコロナ禍は特異だ。

昨年のインタビューで大学野球の監督としてどう学生と向き合っているのかとの問いにこう答えていた。

「現役時代は負けられん、という思いだけで野球をやってきました。突出した技術や身体能力があったわけではない。素直に聞く優等生タイプだったらプロ野球選手になれてなかったと思います。今になって分かることもたくさんあります。野球を通じて多くの方と出会い、サポートしていただいたおかげで今の自分がある。そういう面も伝えていけたらと思っています」。

コロナによって経験したことのない事象に直面。改めて「原点を見つめなおした」という。間もなく開幕予定のリーグ戦。万全とはとても言えない。だが学生第一を念頭に準備を重ねてきた。感謝の気持ちを忘れず、トップリーグでの戦いに挑む。

◆小島弘務(こじま・ひろむ)1967年10月30日生まれ。京都府出身。平安高から駒大に進むも1年で中退。浪人を経て住友金属に入社。89年に西武とドラフト外で契約も社会人でのプレーが2年間だったため、3年間が必要とされた高校卒が適用、入団は無効となり再び浪人。90年ドラフト1位で中日入団した。98年ロッテ移籍、99年に戦力外通告を受け、00年台湾プロ野球を最後に現役引退。プロ通算167試合に登板、19勝15敗8セーブ、防御率3・60。15年から追手門学院大学硬式野球部監督。