日本に初めてワールドカップを伝えたのが東京12チャンネル(現テレビ東京)だ。1970年(昭45)のメキシコ大会の全カードを金子勝彦アナウンサー(82)と解説者の故岡野俊一郎氏(元日本サッカー協会会長)が「三菱ダイヤモンド・サッカー」で放送。74年の西ドイツ大会は、決勝戦で初の生中継を成功させている。

 ダイヤモンド・サッカーは68年4月13日に始まった。東大サッカー部出身の故篠島秀夫氏(元三菱化成社長)が英国出張で英BBCのサッカーダイジェスト番組「マッチ・オブ・ザ・デー」を見た。「サッカーは人それぞれの役割があってチームとしてのパワーを発揮する。サッカーを知ることで若者に国際感覚が身に付く」と考え、番組提供を決めたのがきっかけだ。

 BBCから映像を購入して放送スタート。美空ひばりの視聴率30%超に対し、サッカーの視聴率は1%前後だったが、金子アナは「それでも50万人が同時に見ているんですよ。岡野さんは、クオリティーで勝負しようと」。金子アナは画面の向こうに「15歳の少年」がいることを意識した。海外サッカーを通し、登場するクラブの地理や歴史も紹介し、少年たちの興味を啓発しようと心がけた。

 番組が始まった年に日本代表がメキシコ五輪で銅メダル、世界ではブラジルのペレが全盛期を迎えていた。金子アナは岡野氏らと「W杯を(放送で)やりたい」とメキシコ大会放送の夢を話していた。そんな中、同局プロデューサーの故白石剛達氏が「金子、おれはメキシコに行く。テレビ会社に行って、お前が言いたいことを言って、値段聞いてくる」と飛び立った。日本でW杯放送に興味を示していたのはNHKと日本テレビ、東京12チャンネル。金子アナは「NHKは決勝だけ、日本テレビが準決勝と決勝と言ってきた中、うちが全試合買うと言ったことで決まった。白石さんは岡野さんとよく飲んでいた。その中で、岡野さんのW杯の思いが響いていたのでしょうね」と振り返る。

 ダイヤモンド・サッカーではメキシコ大会を52週にわたって放送。今では考えられない「後半は次週」という構成だったが、サッカー少年たちは食い入るように見入った。金子アナは「みんなの熱意の結果。局内で何だ? W杯って、と言われてましたが、それからですよ、あらゆる者がW杯と言い出したのは」。

 74年西ドイツ大会も放送。7月7日の決勝戦の中継日が参院選の投開票日と重なり、報道担当者から「また、金子の道楽か」と陰口をたたかれた。金子アナは「道楽結構。正面突破ですよ」。西ドイツ大会の決勝のスタジアムは超厳戒態勢だった。72年のミュンヘン五輪でテロが発生した影響だった。入場にはペンケースの中身まで調べられた。

 番組は20年にわたり1000回近く続いた。日本代表の西野朗監督も視聴者プレゼントに応募し、シューズをもらったという。金子アナと岡野さんの信条は日本サッカーの父、故デッドマール・クラマーさんの「言葉はショート(短く)、コレクト(正しく)、チャーミング(魅力的に)」。ダイヤモンド・サッカーがなければ、今日に至る日本のサッカーの発展はなかった。【岩田千代巳】