Jヴィレッジのセンターハウス
Jヴィレッジのセンターハウス

「東北に春を告げるまち」がどこだか分かりますか? それは福島県双葉郡にある人口約5000人の小さなまち、広野町。東北最南端の“町”で、冬の平均気温は10度超え。雪もあまり降らず、みかんが育つ北限でもある温暖な気候であることなどが由縁だ。

そんな広野町にとって、切っても切り離せない存在となっている施設がある。それがお隣の楢葉町にまたがって97年にオープンした日本初のサッカーナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」。同施設は11年3月の東日本大震災による原発事故の拠点となり、昨年7月に一部営業再開。そして今年4月20日に完全営業再開を迎える。本来の姿を取り戻した約8年ぶりの“春”到来にむけ、地元役場の方々らに話を聞いた。

Jヴィレッジオープンから20年以上がたち、広野町には自然とサッカー文化が根付いている。同役場復興企画課の大和田徹さんは「サッカーで町を盛り上げていくというのは住民のみなさんにも伝わっていると思う」と話す。W杯の際には役場職員は日本代表のユニホームを着て仕事をこなし、地元住民を集めて代表戦の応援を行うこともある。Jヴィレッジは20年東京五輪・パラリンピックの聖火リレーの出発地にも決まった。「全世界から注目されることはありがたいこと。復興した姿を見ていただき、住民のみなさんも元気に生活できると思います」。

Jヴィレッジでは17年3月に原発事故の拠点としての使用が完全終了。サッカーなどに使っていた一部の芝生のピッチは駐車場として使われ、鉄板や砂利などが敷かれていた。営業再開へ向け、18年5月に芝生のピッチを管理するグラウンドキーパーとして同施設にやってきた斉藤健さんはこう振り返る。「最初に来た頃はひどい状況でした。駐車場に使っていなかったピッチの芝は伸び放題で、大人の背丈ぐらいまであった」。同7月28日に一部営業再開することも決まっており、急ピッチで整備作業を進めた。「バタバタでした。あっという間に時間が過ぎていった」。懸命な作業の末、かつての姿と遜色ない深緑のピッチをお披露目させた。

芝生には温暖な気候を生かした変化もある。これまでは寒冷地向けの冬芝ベースでつくっていたが、今は関東などで使われるものと同じ夏芝ベースになった。斉藤さんは「通常は、夏芝ベースのピッチの北端は茨城。技術が進んだこともあるけど、ここは思ったほど寒くないからいけると思った」。芝生の幅も以前よりも広くとり、ラインの引き方によって痛んだ芝生を避けてサッカーコートを作れるようにした。夏芝へと生え替わってくるのは3月末ごろから。完全営業再開を果たす4月20日には、美しいピッチができあがるそうだ。

Jヴィレッジスタジアムのピッチ
Jヴィレッジスタジアムのピッチ

Jヴィレッジとともに、かつての活気を取り戻す。施設は東京電力福島第1原子力発電所から南に約25キロの場所にあり、震災時には原発事故警戒区域となって地元住民のほとんどが避難した。楢葉町役場によると、少しずつ増えてはいるものの、今の町の人口は震災前の5割ほど。周囲の放射線量は健康に問題のないレベルまで下がっているとはいえ、まだまだ完全復興とは言えない。それだけに、営業再開するJヴィレッジへの期待は大きい。同町役場復興推進課の坂本裕さんは「かつてはバリケードや検問も多かったが、今は道路で普通に車が走っていたり、Jヴィレッジも営業再開した。やっとここまできたかという感じ」。広野町同様、東京五輪の聖火リレーの出発地に決まったことは喜んでおり「地元の子どもたちに走ってほしい。Jヴィレッジに愛着を持ってもらって、あとにつなげていきたい」。サッカーのイメージが強いJヴィレッジだが、地元住民は昼食のためにレストランを訪れたり、フィットネスジムに通ったりと、生活の一部分として利用する人も多い。

ともにJヴィレッジを支える広野町と楢葉町の思いはひとつ。楢葉町役場にある看板にはこう書かれていた。「未来へのキックオフ!光と風のまち・ならは」。サッカーとともに生きる町で始まった新たな春。その行方を今後も見守っていきたい。

◆松尾幸之介(まつお・こうのすけ) 1992年(平4)5月14日、大分市生まれ。中学、高校はサッカー部。中学時は陸上部の活動も行い、中学3年時に全国都道府県対抗男子駅伝競走大会やジュニアオリンピックなどに出場。趣味は温泉めぐり。