日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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「うそだろ」と目を疑った。16年8月19日、リオデジャネイロ五輪陸上男子400メートルリレー決勝。3走の桐生祥秀が、爆発的な加速で外側の中国、カナダを抜く。観衆の絶叫渦巻くメインスタンドから見ても明らかに速い。日本は全力の米国(のちに失格)に先着して2位。桐生は歴史に残る銀メダルの立役者だった。

だが6日前は不穏な空気が漂っていた。個人の100メートル予選。ボルトと初めて同組だったが、体が浮き上がって10秒23の4着。ボルトの存在に「スタートを速くしないと」と焦り、崩れた。悔しい時の癖である早口で「僕はもう速い選手じゃない」。山県、ケンブリッジが準決勝に進出する中、リレーまでに立て直せるか、予想はつかなかった。

20歳で迎えた初の五輪。直前調整に失敗した。7月にスウェーデン、ハンガリーと海外を転戦。9秒台のスプリンターに連敗した。ハンガリーで大会前日練習を取材したのは記者とテレビ局の2人だったが、撮影を断られた。練習後は大の字に寝転がり、ずっと何かを考えていた。最後はバツが悪そうに「すみませんでした」と謝られたが、見たことがない姿だった。

翌日は追い風1・9メートルの好条件で10秒17の6位。レース後に「9秒台」の質問をされて「そのために走ってるんじゃないです!」。この質問に怒る桐生も初めて見た。13年4月の10秒01から、ずっと我慢強く「期待されるのはうれしい」と答えていた。帰国後は「五輪決勝」「9秒台」の目標を口ごもり、顔をしかめるようになった。記者は100メートルの展望記事で「走り終わって味わう感情が20年東京五輪に向かう成長の糧になる」と書いた。正直、100メートルでの活躍は厳しいと感じていた。桐生も「最高の自信をもって五輪に来られなかった」と悔いた。

リレー予選まで中4日しかなかった。桐生は敗退ショックを心配した土江コーチに「自分で好きなようにやってきて、これだった。自分のせいです」と潔く言った。当時は坂道ダッシュなど達成感を感じる練習を好み、地味な筋力強化を後回しにした。すべて自分の責任-。一方で京都・洛南高の恩師、柴田監督に「オリンピックの100メートルを走ってきました」とメールした。短い文面から五輪初出場の20歳らしい高揚感が伝わってくる。思う結果でなくても、憧れた舞台で最初の1本走り終えたことで過度な緊張から解放された。

わずか中4日で激変した走り。桐生はもともと過去のレースをあまり覚えていない。「過去のことも、タイムを出せば関係なくなる。この競技はわかりやすい。シンプルで好き」。2度目五輪に向かう桐生にとって、歓喜の銀メダルも、日本人初の9秒98も、もはや関係ないだろう。「今」にかける24歳がリオの記憶を上書きしてくれることを期待している。【益田一弘】