「20代のころは孤独で、ずっと1人で走っているような気がしていた」

 取材エリアで聞いた言葉が耳に残った。

 陸上日本選手権第2日の24日、男子200メートル日本記録保持者末続慎吾(37=SEISA)は、予選のスタートラインで歓声を聞いた。9年ぶりの日本選手権は、07年世界選手権大阪大会以来のヤンマースタジアム長居。隣は19歳年下のサニブラウン。序盤に飛び出したが、最後は全員に抜かれて最下位の21秒50。レースを終えると、拍手が降り注いできた。

 「こういうことってあるんだ。1人じゃないんだな、走っていない間も皆さん、見てくれたんだなと思った。20代のころは孤独で、ずっと1人で走っているような気がしていた」

20秒61で同組1位となったサニブラウン(右)と21秒50で8位の末続(撮影・清水貴仁)
20秒61で同組1位となったサニブラウン(右)と21秒50で8位の末続(撮影・清水貴仁)

 2000年代、陸上界の主役だった。03年世界選手権200メートル銅、08年北京五輪400メートルリレー銀。走るたびに、自己記録10秒03の100メートルは9秒台を、同20秒03の200メートルは19秒台を求められた。自国開催の世界選手権で期待は頂点に達したが、2次予選敗退。当時、過熱する周囲とは裏腹に、末続の心は摩耗していったという。

 「散々レースで勝ったり負けたりをしているうちに、何に勝ちたいのか、何に負けているのか、わからなくなる時期がある。勝ち負けという狭い範囲で判断して。得るものも大きかったと思うが、失った心の方が大きい気がする。最後は心が冷たくなった。走ることに何も感じなくなった」。

 08年から3年休養した。

 「スパイクを履こうとしなかったボロボロのところから始まって、試合に出て、情熱を取り戻して、勝ちたいと思って。日本一のかけっこ(日本選手権)に登っていく。それが、僕がしたかったことだった」

 五輪イヤーだった昨年4月。熊本選手権出場に備えていた時、同市内の自宅で熊本地震で被災した。「わけがわからないぐらい揺れた」。自宅も物が倒れてがちゃがちゃになり、夜は車の中で朝日が昇るのを待った。陸上を続ける意味と向き合った。「僕は走ることで、人生を生きてきた」。

 リオ五輪男子400メートルリレー銀メダルは、テレビで観戦した。昨年末には北京銀メンバー4人がプレゼンターとしてリオ銀メンバー4人を表彰した。末続は、その席で「どこかで彼らと走れればいいですね」と笑った。北京でバトンをつないだ朝原氏、高平氏、塚原氏はすでに引退している。

 9年ぶりの日本選手権。レース前は「楽しくて、早くやらせてくれ」と号砲を心待ちにした。「吐きそうなくらい緊張した。年食っても、これはカバーできない。『今日、死ぬほど緊張している』とスタッフに言うとフッと楽になった。ちょっとはいい年の取り方をしているな」と笑った。そして迷いのない口調でこう言った。「走ること自体が僕の魂。大好きであることは十分に分かっている」。

21秒50で同組最下位の8位でゴールも笑顔をみせる末続(撮影・清水貴仁)
21秒50で同組最下位の8位でゴールも笑顔をみせる末続(撮影・清水貴仁)

 「結果を求められて、その中でもまれて、悩みながら、挫折したり、栄光をつかんだりして、僕らは生きている。当然、以前のように日本記録では走れなかったが、今出せるもの、自分が考え得るベストの走りを出した。そしてああいう歓声をいただいて思った。果たして見ている人は本当に誰かが勝つ姿を見るためだけに来ているのか。9秒台を、19秒台を見るためだけに来ているのか。僕はわからなくなった。スポーツには違った形、見方があるのかなって。僕は続けているうちにそう感じていた。僕を知らない人もいる中で、ああいう拍手をもらって、その歩みを感じてくれたのかなと思った。走ってきてよかったなあと、今日は幸せでしたね」。

 孤独の先に37歳を待っていたのは、スタジアムから寄せられた共感だった。【益田一弘】

 ◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の41歳。大学時代はボクシング部。15年世界選手権北京大会で報道陣向け800メートルに出場。「鳥の巣」2周を走り終えて、もん絶。取材エリアで平然と質問に答える選手たちは超人だと思い知る。昨年リオ五輪は男子400メートルリレー銀メダルなどを取材。